オスマンの亡霊:西アジア問題

政治哲学者マイケル・ウォルツァーが「イスラム主義と左派」を書いている(SYNODOS)。


1990年代以降のウォルツアーやローティ、ハーバーマスらの正戦論は個別に解読しなくてはならないが、このウォルツアーの提議についていえば、アメリカ&グローバル帝国主義への抵抗勢力に対して野蛮だとか時代錯誤という認定だけではむしろ抵抗勢力の支持層を増やすことにもなるのではないかとまずは釘を刺したい。敵対関係にある一方の勢力の価値に加担する前に、また最善の方策を捻出する前に、<敵>のすべてを理解すること。これは孫子の教えである。


イスラーム主義が西欧近代主義に対する絶望的な闘争であることは、19世紀スーフィズムのタリーカの闘争の展開からみれば明瞭に見える。また、オスマン帝国の壊滅過程からも。そうしてそれは、清の崩壊と江戸幕府崩壊とも重なる。個別には違うとはいえ、19世紀に大英帝国ロシア帝国の競合があり、新興国アメリカ帝国が追う。弱い国は併合され植民地になった。日本でも攘夷運動が展開したが、結局は近代派に転向した長州薩摩が勝った。日本はオスマンとは異なり、近代化に成功した。しかし西欧への屈折した感情はむしろ増幅した。その結末が大東亜戦争であり、大日本帝国の消滅であった。


イアン・ブルマなどは日本の反西欧思想とイスラーム主義を近似したものとして捉える(『反西欧思想』新潮社)。ブルマの理解には間違いもあるし、第二次大戦の西洋連合国とイスラエルに対してあまりに身贔屓があるのでそこは差し引くとして、日本とイスラームのそれらが西欧列強へのリアクションであったということではそういえる。オスマンの後期が、途中までは驚くほど日本に似ているのはそのためだ。また、ブルマは触れていないが、日本と同様の攘夷思想は清にも朝鮮にもあった。


今日のイスラーム主義の展開について、そうした歴史また文明的認識ではなく、イデオロギー闘争でやろうとウォルツアーはいう。この提案は、試みる価値があるとは思う。


しかしながら、第二次世界対戦後のイスラエル建国戦争を国連(英米をはじめとした列強)は擁護したこと、まずはそこからしか話は始まらない。歴史を遡ってもきりがないという批判が予想できるが、それは歴史の否認にほかならないし、第一、<敵>が明確にそう主張している以上、そこは踏まえて議論に参画すべきであろう。第一次世界大戦時のオスマン消滅や、イギリスがフランスとオスマン領土を分割した密約であるサイクスピコ協定、またはユダヤ主義=シオニズムイスラエル建国を約束したバルフォア宣言などの問題はなによりもイスラエル問題から遡及した問題にすぎないのであって、ある個別の歴史をいかに認識すべきかという議論で触れるのは当然の手続きである。もしイスラエル建国がなければ、西アジア情勢がどうなっていたかは分からないし、同じだったかもしれないが、それでもいまよりずっと内戦に近かったろう。


イスラーム主義、またそこからイスラーム教典に遡及して宗教批判を始めてしまえば、ユダヤ主義の敵を滅ぼせというヨシュア記や申命記での戦争論理も、外ジハードと同様に論じる必要があるし、また仏教の名の下に行われた魏の大乗の乱では殺すことが菩薩への道ともいわれたこと、あるいは日本やスリランカでの宗派内戦、臨済の殺仏論や親鸞の千人殺害論も同時に論じる必要もある。しかし宗教批判が宗教改革につながり、教典の記載を今日の視点から裁くことしか選択肢がないとする見解に対しては、それもまた近代教というひとつの宗教(価値体系)ではないかともいいたくなる。


近代文明の価値基盤が西アジアから問われていることは間違いない。どう考えればよいかわからず、とにもかくにもイスラーム西アジアの歴史を再勉強しなくてはならないと乱読したら、やはりウォルツアーの正戦論は一つのコミットメントの表明に回収されてしまうといわざるをえないと思うにいたった。


再読したなかで最も説得力があり刺激的であると思えたのは、カール・シュミットの《政治的なものの概念》であった。


シュミットはいう。「人類そのものは戦争をなしえない。人類は、少なくとも地球という惑星上に、敵を持たないからである。…一国家が、人類の名においてみずからの政治的な敵と戦うのは、人類の戦争であるのではなく、特定の一国家が、その戦争相手に対し普遍的概念を占取しようとし、みずからを普遍的概念と同一化しようとする戦争」なのであり、それゆえ、「人類」とはイデオロギーの道具であるとする。さらに有名な箴言が続く。「人類を口にする者は、欺こうとするものである」。


シュミットが批判したのは戦前の国際連盟のことであるが、その批判は戦後の国際連合にも鋭く突き刺さったままである。これらを踏まえるなら、国連はそもそも朝鮮戦争以来、全く無意味な機関である。国連軍の実態とは、いかなる国家からも独立した軍などではなく、理事国という名の列強による多国籍軍である。名前を変えてあたかも普遍主義や平和主義を装うことは欺瞞である。また理事国という階級を設けることもおかしい。各国は対等であるのだから。国連は世界各国の会議の場所としてはよい。しかし決してそれを権威とみなすような過ちは犯してはならない。国連はホールだけでよく、決議などの政治的な機能を持つべきではない。なんとなれば、欺瞞であるからだし、組織内での公平な選挙さえ行われない破綻した組織だからだ。


アメリカ帝国についてはいうこともない。アフガン、湾岸戦争イラク戦争で短期的な戦闘には勝利したが、現在にいたるゲリラ戦争と統治不能状態からいえば、明らかにアメリカは敗北している。インドシナ戦争を継承したベトナム戦争の二の舞いであるのはいうまでもない。


流石に日本の世論はアメリカ主義でもイスラーム主義擁護でなく、中庸の見解が多いようだ。もちろん、政府が対中国で日米同盟を固めようとするあまり、イスラエルに寄り過ぎた問題がある。一部左翼と野党が政権交代のためのキャンペーンを繰り返してはいたが、その視野狭窄は自分たちでも気づいていたようだ。政府のアメリカ寄りを批判するのであれば、あるいは、アメリカの戦争に巻き込まれたくないのであれば、そもそも日米同盟の解消こそが主張されるべきなのだが、そんな声はほとんど聞かれない。日本の左翼からすれば、日米同盟解消によって、日本が自主防衛に軸を移し、対中国・ロシアを牽制しうる軍事力(防衛力)を保有することを怖れているのかもしれない。もっとも、侵略戦争と防衛戦争を意図的に混同し、防衛する権利さえもないのであると、超越論的に説教するのは、カルトないしアレルギー反応でしかなく、脊髄反射の反応でこそあれ、なんら思考や論理的な検証を経たものではなく、つまりは論外である。


日本の左翼からウォルツアーのような論客は出てこないだろうか。いまの雑誌を見てると無理だろう。ただ、ネット雑誌には可能性があるが公論の場としては機能していない。2ちゃんねるTwitterでの口喧嘩、罵倒合戦のなかにちらちらとみえる知性の種の方が、そうしたネット大衆の言葉の方が、大衆を全的に否定して反知性主義を嘆く身振りで、自らのエリート主義を正当化する行為よりもましであろうか。


ぐるぐる回るが、イスラーム主義を語る難しさは、イスラエルを批判する難しさと等価である。イスラエルへの批判は、反ユダヤ主義といとも簡単に結び付く。


イスラーム多神教や異教を敵とみなしているのもたしかだろう。(イスラーム主義に関しては、サイイド・クトゥブはインドのヒンドゥーや日本の宗教を偶像崇拝として批判している。コーランでは強制改宗はないと書かれているが、イスラーム初期の642年、東ローマ帝国との戦争で疲弊した隙を突いてサーサーン朝ペルシアを倒し、ゾロアスター教はほぼ消滅した。)


しかし、日本ではイスラームへの強制改宗はないし、これからもないだろう。もしあれば、草木国土悉皆成仏、および、神仏習合の伝統的な鎮護思想でもって退散させられるに違いない。そうであれば、やはり脅威ではないし、事実、いま現在日本でのイスラーム嫌悪は見当たらない。オウム真理教事件の記憶がそうしたバランスをとらせているのか、やはり対米感情の屈折がそうさせるのか。または、イスラーム文明との接触が歴史的に稀少であったためか。(イスラーム商人が支那まで来ながら、日本に来なかったのも不思議であるが、貿易としては支那で足りたということなのかもしれない。)


欧米でイスラーム嫌悪があり、イスラーム脅威があるのは、移民問題もあるにせよ、やはりここ二百年自分たちが西アジアに何をしてきたかを知っており、それをさらに否認して抑圧するから、最悪な形で再び出現しているということだろう。


イスラーム国とは、やはり欧米エゴイズムの鏡であるとそれがしは信じる。自らのモンスターが転移して増殖したのだ。


イスラーム国は壊滅するかもしれない。しかし、イスラーム主義はますます尖鋭化するだろう。イスラーム国を支持するものは西アジアのみならず、インドネシアやフィリピンなど東南アジアにもいる。近い将来、イスラームの人口はキリスト教人口を上回るともいわれる。これだけの歴史と勢力を持つイスラームを過小評価することは愚かしい。


やはりユダヤ教、基督教、または仏教、ヒンドゥーでもいいが、世界の宗教界はイスラーム法学者と真摯な議論を二百年くらい続ける必要があるのではないか。政治的解決とは結局はパワーゲームであり、その解決とは常に短期的なものにすぎない。もちろん、未来は予測不可能であるし、既存宗教とまったく異なりながらも信者を驚くべき速度で獲得していくような新興世界宗教も生まれるのかもしれないが、各宗教はそれぞれの歴史と教義を互いに尊重しつつ、なんらかの共通理解を図っていくことはできるはずだ。


附言すれば、現在の西アジア情勢に際して、イスラムと西洋の対立ではないと必死で欧米は主張しているが、火消しとしてはいいし、穏健派イスラームともそこは共有できるかもしれないが、それは方便にすぎず、歴史の否認としては欺瞞である。


続附言。中東という地理概念は、西欧からの方角である。日本では西アジアというべきだろう。そうすれば東アジアの隣接地域という意味が発生し、遠い問題ではないという認識に幾許かの寄与はするだろう。

(Facebookに掲載した文章の増補改訂)