法と道徳

刑法総論憲法についての本をぱらぱら見ると、いろいろ感慨深い。
刑法の基本概念である構成要件の理論、違法性の理論、責任の理論とか、行為の理論とか、法解釈のスキームを巡るものは、たしかに朦朧としてくる。なんで「構成要件」とかいう術語になってるかといえば、ドイツ語のTatbestandの直訳語だそうだからである。ああ、と思ってたら、日本の刑法は、明治期に、パリ大学ボアソナード教授を招聘して、フランス刑法をモデルに刑法典を作成し、明治15年から施行された。しかしながら国情にあわずw(当たり前だ)、明治40年にドイツ刑法とくにベーリングの構成要件理論の影響下、現行の刑法典が制定された。
 日本刑法の特色としては、海外の刑法典と比較すると、各則の構成要件の規定がかなり包括的で、条文が少なく、各罪の法定刑についても上限下限の幅が広いという。そのため、裁判官の解釈や刑の量定の裁量が大きく、また学説による補充の必要もある、とのこと。
 だから、ぐちゃぐちゃしているのか。

 ベッカリーアとかカントとかが出て来て、おおという感じだが、市民革命、フランス革命のなか構想されてきたわけだ、とあらためて。うーむ。しかしま、明治維新は断じて「市民革命」ではないわけだから、そういう違う状況コンテクストにある外国の法典をそのまま持ってきたって…。しかも、25年で、変わったかと思ったら、モデル法が別の国に変わっただけ。そうすると、第二次世界大戦が終わったときに、改正はどの程度行われたのだろうか。憲法のことで精一杯だったのか。いやー、それにしてもこれはちょっと。まずいっす。大変である。

 いずれにしても、なんでいままで日本に住んで育ってきて、なんかロジックがないなあとか、どうしてこうも感情むきだしでヒステリックなんだろう(自分も含めて)とか、感じて来た理由がわかった気がする。(15年前とかのワイドショーとかと演出がまったく変わっていないいまのワイドショーでのホリエモン=ドザエモン=ムイチモン・バッシングを見てて、映像処理というか過剰な反復がゴダールの「Here &There」っぽいwなあ、このパラドクサルな歪み感覚ってなんだろう、ワイドショーのアナモルフォーズとか思いながら、心底、ダサイ、でもダサすぎて逆に面白いこのC級ドラマトゥルギと思う日々だったから、なおさらだ。)
 日本の法それ自体が、モザイク状というか、歴史というか状況に振り回されてきたわけだったのだ。それゆえ、法が社会に根付いていない。法と道徳とを峻別すべきとしたのはカントであるが、多くのひとが法と道徳とをごっちゃにしている。「だって決まりでしょ」「みんなやってるじゃない」とかつまりはやっぱり五人組的な道徳感覚で、日本社会の独自のシステムといわれる(うさんくさいが)「世間」の「法」は、構成されている。
 いやまあ、法についてはいま勉強はじめたばっかりだから、いまはうまくいえないのだが、しかし妙に腑に落ちたのだった。
 つまり、なぜ法があるのか、なんのために法があるのか、そういう法理念的な感覚がないのもあたりまえだったのだ。全部場当たり的だったのも当たり前だったのだ。
 なぜ批判を封鎖するのかとかもこれで分かった。すくなくとも、腑に落ちた。

(追記:法が「モザイク」なのは、別に日本に限らないという。イギリスの法などは、慣習法ですごく細かいらしい。)