小平玉川上水道路計画と緑地問題

緑地保全はどんどんやるべきだし、住民投票という手段が存在することも、民主主義の観点からよいことと思う。

しかし、この小平玉川上水道路計画について思うのは、小平市もさることながら、むしろ計画主体である東京都、そして国に対して訴える方がより適切ではないか。都・国は「まちづくり・町おこし」を多様な形で推進するといいながら、一方で数十年前の態度で進行させるのは、時代錯誤なのではないか。

そもそも、小平市長は、市が理想とする都市像を「緑と活力のあるふれあいのまち」としていることとこの道路計画との矛盾についてどう考えているのだろう?渋滞緩和のための新道路の必要性があるとしても、小平市の理念からすれば、本来、市は都の計画に対して反対する立場にあるのだから、都よりむしろ住民の声に寄り添うべきではないだろうか。最低でも入念な説明と議論が必要なはずだ。

しかし、小平市長は十分な対話と議論を事実上拒否し、一方的に友好投票率を指定したり、それに満たない場合は開票しないといったり、市としては都に何もいわないといったり、まるで1950年代の映画に描かれた古典的な権力者のような妄言を連発している。

また、部外者として、しかし都民として個人的に思うのは、市民運動の文脈から「住民投票しかない」と考えるのは一般論または運動の戦略として間違っているのではないかとも他方で思う。住民投票にせよ、国民投票にせよ、それは最終手段であって、それ以前に十分な議論が必要なのだ。「投票による解決」とは「多数決による解決」なのであり、その投票において少数派の見解が考慮されることはロジカルにありえない。住民投票の価値を否定するわけではないが、「数による解決」よりも熟議による解決の方が好ましい。

今回の住民投票はあくまで都市計画に住民が参加するための投票であるともいわれているが、そうしたことにそもそも、なぜ住民投票という形式が必要なのだろう。経緯の詳細は知らないが、それが住民からの提案だとすれば、やはり訴える先は開発主体である都のように思うし、道路計画に賛成する市民との熟議と説得の方が優先されるべきではないだろうか。もし市側からの提案だとすれば、罠としかいいようがない(チラシには住民側からの要望と書いてある)。

最悪、もし住民投票の結果、雑木林の伐採への反対が挫けたとしても、市には市の理念として新たに緑地をつくっていく義務があり、またそのような「緑の都市」こそが小平市の生命線ではないかと訴えることができるように思う。

少なくとも、道路計画が横暴に実行された暁には、「緑と活力のあるふれあいのまち」という理念は放棄し、「アクセサビリティと活力のあるふれあいのまち」と、都市理念を修正すべきであろう。

さらに都民としてでなく、純粋に個人的に思うのは、緑地は地方・田舎にまだまだ大量に残存している。

近代日本の中央集権制によって関東平野の緑地が悉く宅地に開発されていった歴史を踏まえるのであれば、緑地都市を理念として高々と掲げながらも緑地よりも宅地を優先する自己矛盾の甚だしい自治体からは早々と退散し、緑豊かな地方へ移住する方がいいのではないだろうかとも、思う。

関東平野の緑地は山間地につらなる郊外にはまだあるが、平地部分の緑地における原生林は公園をのぞいて壊滅している。しかし、近年、都市緑化構想も推進されている。都市部の緑化は、原生林の保護という観点よりも、現在の高度な人為技術による緑化という観点から考えていく方が適切だろう。

いわゆる自然保護運動にありがちな陥穽は、「自然をいじるな」という命題であるが、歴史的な観点からいえばこれは間違っている。伝統的な日本の風景としてたびたび賛美される里山は、手つかずの自然ではなく、里の民衆が間伐したりずっと手を加えてきたものである。限界集落問題においても、里山に手を加える人手が足りずに、里山の生態系が混乱し、荒れ地・荒れ山となっていると聞く。自然と人為が対立するのではない。里山とは、自然と人為が接するもの、または双方が交錯し、交わる場所であった。

この意味で、自然は放置されれば自生的に成長するとする自然主義的なアナーキズムは根幹から間違っている。

もっとも、極端なディープエコロジーは自然環境保護のためなら人類は滅亡すべきであるとも主張するのだが。人類の営為すべてを全否定するこのような原理主義は、一見、ウルトラファシズムのように見えるが、実体は自分の独善的なイデアを絶対視するエゴイズムにすぎず、公共性や社会的なるものを思考する思想形態のひとつであるファシズムでさえもない。


[参考]
小平都市計画道路に住民の意思を反映させる会
http://jumintohyo.wordpress.com/2013/05/05/2111/