快楽の未来、サドの方へ

連日、打ち合わせ、微調整、詰め、確認、点検…。あんまり頭が働かない。茫洋。
なんかねえ、あんまりデスクワークというか、考えること、向いてないのかな。いや、向いてないのは知っているのだが、そのくせ、スイッチが入ると、ぐだぐだ夢想が始まる。
やるべきことはやまほどある(ってmさんの言葉が反響…)のに、夢想の欲求は、強まる。
のどはまだ痛い。鼻も舌もうまく機能していない。煙草、臭いがきつくて、吸ってる場合じゃないのに、ニコチンに15年以上浸かってきた体が、ごく「自然に」欲する。まああんまり咳きがひどいと、さすがに吸えないが。少しでも煙草を楽しもうと、鼻うがいをせっせとやっては、吸う。悪循環。でも、この悪循環、いや身体保全の健康に、限らず、悪循環、好きですね。だって、それが人間だー!って、私お得意の開き直り戦法。それにしても、「開き直り」は大切だと思うのだ。つまり「開き直り」は一般にいわれるような悪徳ではなく、ニーチェ的な「大いなる肯定」だから。たぶん。いや、絶対。かりに「開き直り」が禁じられるとする。そんなんなったら、うつで死ぬ。だって、閉じ込められて、そこから出られないわけだから。とかいいながら、別に外へ出たいという欲望も最近は薄まった。かつてはよく旅行していたが、ここ数年、さっぱり旅行する欲望がおきない。旅行ねえ。旅行がいまとなってはいやなのは、また自宅へ戻ってこないとだめだからだ。この志向、もしかして死への欲望のヴァリエーションなのか。たしかに、仮死状態、というかリセット、大好きである。
気分転換も兼ねて、mixiサーフィン。いろんなひとがいる。「趣味-関心」のリンク。あんまりやると気が遠くなる。でもいろんな情報があって、それはそれで有効だ。circle of interests。わんさんの話、aが爆笑。いや、さすがに、とってもさびしいものでねえ…。とおっても、さみしくってねえ…by土方巽公。

yちゃんが詩人の野村喜和夫さんhttp://www.kiwao.com/の生徒だった。

ところで、どこへ行こう。これから。未来は。

ところで、ロラン・バルトは、若いころ、演劇にはまり、ブレヒト主義者としても高名であり、また、マラルメプルーストを、その「演劇性」において、観察していたし、また、マルキ・ド・サドについても、身振り言語のロゴテート、みたいなこと言ってもいる。サドは、自身の作品の、上演を計画してもいたようだ。サドについては、いまだに、難解で、まだなにも分からないのだが、バルト=サドのいうポーズの厳密な探究とは、考えてみれば、絵画や彫刻の歴史において、連綿と継続して行われてきていることだ。それを、「美」なり「優美さ」の追求としてもいいのだろうが、それはなんなのか。「美」なんて、キショイとうそぶいていたこともあったが、自分がいまやってることも、「美」の追求といえなくもない。たぶん、こういうことだ。ひとはなにか遊ばないと生きて行けない。ホモ・ルーデンス。遊びをせんとや生まれけむ。なにをもって遊びとするか。それはひとそれぞれ。時間をそうして費やしていく。それは無為でもあるし蕩尽でも消尽でもある。いっちゃいたいもんだ。…しかしこうした「大いなる肯定」あるいは「達観」に厭きてるというのに。バルトのかっこいい言い方があった。いわく、快楽の未来。

平戸のお菓子、カスドースが実家から送られてきた。カステラの原型らしい。もともとポルトガルから伝わった時点での形に近いと言われている。たいへん、好きである。

消費社会とは最悪のファシズムであるというパゾリーニのテーゼからすれば、消費の快楽とはどうなるのかという話。

  • それは、まず問題は、「ファシズム」にあるということではないのかね。快楽も欲望も「完全に」統御されるその事態がおぞましいのであって、快楽それ自体がどうのという話ではない。
  • とはいいましても、快楽の対象および快楽知覚は社会的に構成されているではありませんか。
  • いやそれは快楽の追求がどこに帰着するのか、その、なんというか、いうなれば、機能をね、考えないと。

快楽の機能ということを。いや、機能というよりは、効用utilityというほうが適切かもしれない。

  • だから、たとえばサドの快楽追求と消費社会の快楽追求との差異はどこにあるんですか。
  • 帰着ということでいおうとしたのは、その結果における差異ということです。サドが残したものは、ある言語体系であり、それは社会的コードから自律している。対し、消費社会のそれは、完全に社会内的に機能している、それは「効果」が「結果」なんです。サドは帰着していない。どこにも効果しない。あれは社会でなしに宇宙に帰属している。
  • しかしサドはまた社会に消費されてもいる。
  • されているか?
  • サドは消費されえないということを、パゾリーニは意図したかどうかはともかく、その生の結果において、証明したといえないか?つまりサドもパゾリーニも、秩序化されえなかったのだから。その差異よりはじめなくては、すべてを混同する結果になる。
  • 失礼しました伯爵。
  • ピエロをよびなさい。へのこ遊びの時間だ。