ロマネスク

ロマネスクについて。バルザックなもんで。ま、顰蹙買うんだろうけど、不思議なのは、なぜ嫌悪されるか、である。なにが?わたくしが。アブジェクシオン。そうだね、境界侵犯なんだ(笑)。知らなかった。そんなところに境界があるんだ。ダンスに言葉は関係ないんだ。身体だけなんだ。って、そんなわけないだろう!ぼけ!なすび!言葉はだれにも所有されない。すくなくとも、理念的には。同様、身体も所有されない。理念的には(?)。というか、所有なんて、できないはずだ。だれが生命を所有する?所有していいのは、神だけ。これはまじでそう思う。所有はまあ社会的レベルの、権利問題にすぎない。って、これがまあ大変だがね。社会のなかで生命は生きて行くしかないから。
 で、イマージュオペラ>>ロマネスク<<。相変わらず、学習の機会として、そのように名付けました。だって、バルザックだもん。私が言い出したわけではない。本当はやりたくない。でも義理です。義理というか義務みたいなもんか。責任を果たすだけだ。しかし、こうなると、ほんと、仕事だな。すべては社会化される。名古屋学派の問題提起も、むろん重要だし、文化の否定性についてはいずれまた学習する。やけど、すべては社会的行為なわけですから、イデアへと遁走することはできない。でも、したい。したいってのは、欲望の肯定。欲望の奴隷との批判が飛んでくる。でも批判も欲望だー。まあ、ここ、真面目にまたいずれ。
 
それで、ロマネスク。って、なに?
 
a.まず、術語としては、建築様式史においては、プレ・ゴシック。ローマ風。
b.それと、こちらが当然問題なんだが、小説的。

小説の誕生、小説とはなにか、みたいな話し。
ロマネスクとロマンティックも、いずれもロマン/ロマンスを由来としているようだ。とすればいわゆる近代も問題としてのロマン主義も、それは元来が、小説のように情念なり欲望なり葛藤なりが主観主義的にたちあがるもの、となる。おもしろいのは、その形式が、小説であるということ。これが20世紀であれば、シネマティックとかなってたんだろうが、もうロマン主義が定着したがゆえ、シネマ主義という語は、成立しえないだろうね。小説の形式問題。
 それで、小説、である。セルバンテスかとか、フランスかイギリスかの書簡体小説かとかいろいろあるが、さて、どうするか。クンデラの「小説の精神」ISBN:4588002945カルヴィーノの文学講議とかがまずはある。カルヴィーノの文学講義―新たな千年紀のための六つのメモ
 
 カルヴィーノのこの本(メモ)は、ハーヴァード大学チャールズ・エリオット・ノートン講議のための講議メモで、カルヴィーノは実際に講議を行う前に亡くなった。それで、このノートン講議へと脱線すると、ボルヘスエーコISBN:4000002112、T.S.エリオット(詩の効用と批評の効用)、蒼々たる講議なんだが、ぼくがずっと欲しいと思っているのは、ストラヴィンスキーノートン講議である。図書館で手にして、非常に読みたい、というか欲しいと思っているが、いまなお見つからない。再版を希望(いいたいのはこれ)。

 
ロレンス・スターンやフィールディング、ケベードとかいろいろあって、数年前、そのへんに取り掛かったのだったが、あまりに量があって、たまらなくなり、頓挫。サミュエル・ジョンソンとかもある。
 だから、小説というより、近代の文章歴史…うーむ、そんな時間はない。ないが、まあ少しずつ、メモ化していこう。以前はノートとっても、そのノートがたちまち膨れ上がり、どうにもならんくなったから。

 それで、小説である。私が小説と出会ったのは、むろんカフカとかカミュとか椎名麟三なり三島由紀夫なりだが、それは10代で、古きよき想い出。
 大変なのは、20代中盤で、あらためて小説に出会ってからだ。とりあえずあれはボルヘスのせいだった。おかげで、ほんとうに迷宮入りしてしまった。いや、ボルヘス先生には、とてつもなく感謝しておりますが。
 それで、自分が感動したのは、まず手術中に読んだバンジャマン・コンスタン「アドルフ」ISBN:4003252519。たしか三島の「小説家の休暇」ISBN:4101050309、出て来たのだった。三島のその本も、大変、いい本である。それで、「アドルフ」。やばい。すごすぎる。信じられない。カミュとか太宰とかなんでもいいが、すべて吹き飛んだ。面白いというか、なんというか、とにかく、異様である。まあ読んだ状況にもよるだろう。と、いま思い起こしていて、再読しなくてはならないと思う。
  
 ついで、ゲーテ「親和力」岩波文庫(画像とは異なる)。歌舞伎座の時だから、意外と、最近だ。これはほかを読んでない(というか近代小説全てを読むひとって…)が、そしてこれはつまらぬ予見だが、おそらくは小説史上、最高の小説であると思われる。小説にライン引くひとってあんまりいないだろう。ぼくだってほとんどそんなことはしない。しかしこの本は別だ。ほとんど、毎ページごとになにかしらの文章にしるしをつけた記憶がある。とにかく、深く感銘を受けた。 親和力 (講談社文芸文庫)

 「アドルフ」がそのドロドロのマジック・リアリズム(?)あるいはモノローグで恋愛なり心理なり倦怠なりを追求したものであるとすれば、この「親和力」は、その人物間の関係描写がすさまじい。構成も、たぶん、完璧で、これ以上、望めない、とぼくには思われる。
 ゲーテはむろんエッカーマンの「ゲーテとの対話」がすばらしくって、あれはなんどか読んだが、まさかゲーテの小説がここまで面白いなんて想像もしなかった。マイスターも読まないといけない。ゲーテとの対話 上 (岩波文庫 赤 409-1)


 ピランデッロ「生きていたパスカルISBN:4828830650。これはいつ読んだか忘れた。大学を出た年だったと思う。これも大変すばらしい。ふつうなんだが、いい感じ(ってほとんど意味不明)。これは逆に、映画のように感じられた。
 
 この三冊はなぜか、かなり深く入った。いずれも一度しか読んでいないのにも関わらず。ただ、いずれも一気に読んだのはたしか。大体、私は長篇小説、ほとんど中断しながら読むもんで。というかまあそれはよくないことなんだろうが。でもまあトーマス・マンのブッテンブロークも、おお!と思って最初は読みはじめ、半分くらいまでいったのだが、どうも退屈になって、興醒め。そう、興醒めするのだ、小説は。でも、映画だって、堪え難いものもある。とくに文芸もの。もう題名忘れたが、ポーランドかロシアかの映画、最初の5分で退屈して、あと2時間、ずっと早送り。画面構成とかもどうでもいいし、しょうがないからプロットだけとか思って。でもあたりまえ、結局は全く面白くない。早送りして楽しめたものってあるかな。いま思うと、ないな。とすれば、我慢して最後まで見ることもないわけだ。タヴィアーニ兄弟の「復活」もこれは映画館だが、きつかった。ぼくがいいたいのは、「ロマネスクな」映画は、面白くないということ。
 かといって、ジャック・リヴェットの「恋ごころ」なんて、最高の映画である。あれはどうなのか。ロマネスクといえないのか?というか、「ロマネスク」と、プロットとはどう分けられるのか。
 どこからどこまでが「ロマネスク」で、どこからが「映画的」なのか。あるいは演劇でもいい。どこまでが小説で、どこまでが戯曲か。
 ロマネスク/ドラマティック/ポエティック/シネマティック…

 音楽、絵画などとはどう対照できるのか。
 「音楽と言語」の解説によれば 音楽と言語 (講談社学術文庫)
音楽はその歴史において、言語化されてきた。また言語も、音楽化されてきた、とのこと。これも読まないと。

 そう、このあたりを考えたい。続く。