エレファント

一昨日、ガス・ヴァン・サントの「エレファント」を買う。買おうかどうかずっと迷っていたものだったが、ここまでひっぱる映画も珍しいのと、また4000円とそんなに高くもないので、とうとう買った。そのあとtさんと会う。本屋にいってレオパルディのカンティを見るがさすがに高いので保留。しかしモンターレ詩集のように、買うのをためらっていると入手できなくなることもある。まあ、新書や文庫が安いからといって買うのを控えたり、節約を試みれば、買える。とはいえ、レオパルディなんて、文庫で入手できないのがおかしいほどの古典。Tさんといろいろ話す。保守主義的心性における暴力崇拝など非常に面白い指摘を聴く。
 サントの「エレファント」を再度見る。初見したときと大分印象が異なるものの、やはり傑作である。aもいっていたが、主題の重さを圧倒的な技術で処理編集することで、こんなことハスミンのようで嫌なのだが(とはいえハスミさんはいい。ハスミ主義ということ。)、「奇跡」としかいいようがない映像世界を提示している。ただ、佐世保で弟と見たときにものすごいものが感じられたのだが、それはあの映画で描かれる「郊外=サバービア」という特性が、観客であるわたしたちがいた場所とリンクしたことがあったのだろう(ローカル)。むろんあそこで描かれた乾いた絶望、虚しさ、やるせなさ、形にしようのない、裸の情動という経験を、多くのひとが共有できるということもある。とはいえ、また他方で、あのような虚しさを経験しないような、「青春」を十全に謳歌し充足させるひとも多いのかもしれない。たしかにひとは個人として世界を体験するとき、ある一定のパタン・形式に沿う。そして周囲の友愛関係や敵対関係のなかでまた別のパタンを見知る。だが関係はつくられるものであるがゆえまた壊れるものでもあり、自己の姿もまたそうした関係の変容によって変容していく。結局、関係とは力の流れであるということができる。それはサントの描く雲のような動きである。ポール・ヴェーヌは歴史を気候になぞらえているが、人間世界は気候のように短期的には予測できても長期的にはまったく予測できない。それがゆえ、サントは、少年たちの、社会の形式に参入する以前の、より気候に近い動きを見せる世界を描くときに、社会の形式に対応するような演技の一般的なコードではなく、インプロヴィゼーションという非形式的な形式を採用した。少年たちに、「自己」はない。「自己」が作られるにはまだはやい。そもそも「自己」は生涯を通じて作られていくものである。ある否定的な力、暴力の力が、「それ」に及ぶ。それは「自己」でも「主体」でも「私」でもない。あえていえばそれは機械のようであり、自身に及んだ力に対応して反射していくような機械のようである。ある秩序による暴力があり、それが情動のなかで増幅され、対抗暴力として、反射する。だからこれは権力のテロリズム(暴力主義)に対する、抵抗のテロリズムである。こうした力の(悪)循環が、雲であり、巨大な象であるような今日の、あるいはそもそものはじめから、世界である。
 生産をうながす権力のテクノロジーが、再生産されるにつれますます洗練されていく。それはたしかに絶望的である。しかしそれは100年前の社会、200年前の社会と比べて、より絶望的なのか。あるいは1000年前のどこかの社会とくらべて。
 いずれにせよ希望を持ちづらいのは、なによりも白痴的な楽観主義が公的イデオロギーとして押しつけられるからであり、それが例えば階級的な基盤を隠蔽したりするようなそもそも欺瞞そのものであるような代物だからである。
 少年たちは、当然、それらが欺瞞であることは分かっている。分かっているからこそ、テロリズムを選ぶ。ナチスの歴史物のヴィデオを見たり、殺人ゲームに興じたりすることは、すでにそうした「洞察」があって以後のものである。
 少年たちのテロリズムが理解できないなどと嘯くひとたちは、たんに「理解したくない」のであり、それは世界を滅ぼすものであるかもしれない絶望という否定性に直面することができないからであり、あるいはたんに少年たちの「洞察」以前の、幸福な無垢なる「幼児」なのである。こうした肯定主義の先祖は、たとえば植民地交易を背景とした“輝ける”啓蒙主義であり、奴隷制を背景としたギリシア・ローマの共和制であるのかもしれない。歴史を力の流れとしてとらえれば、欺瞞の体系としての正統化=合理化の力が見える。青年イエスが示した「力」からの脱却あるいは脱構築も、教皇制度という代弁=代表の制度によって「正統化」される。ソクラテスプラトンによって「代表」されたように(ここはもっと検討したいところである)。「正統性」への抵抗は、ルターを経て、ニーチェによって再開される。ニーチェを代弁し、使用したナチスからの奪い返しはこれからも続けられる必要がある。
 少年たちのテロリズムは無方向であるという非難は無意味である。なぜなら、少年たちの方向とは、彷徨であるからだ(駄洒落ではない)。少年のひとりが遠景より近景に現れるショットでの彷徨は、ジャコメッティの彫刻の線のように孤独の情動をしるしづけていて、鋭く美しい。「美しい」のは、その描写がある「真実」を描ききっているからである。
 少年たちはなにも代弁していない。それは直接的にはもちろん私怨による復讐である。それは母がおらず、父がいても、たんに崩壊して力を奪われた父と、法を維持するためだけにいる父(校長)しかいないからだ。「法」はすでに機能していないし、リベラルな性の解放が「お喋り」として話されている程度である。アクション(力)とそのリアクション(反応)とが作用するその場所に、フィルターあるいはメディアがない。法が思考される以前の、法が制定される原初の暴力に似た暴力が、反応として行われる。しかしそこに結果としては思考が介在しないから、はじめに殺されるものは、自分の分身のような「さえない」女子である。結局、このテロリズムのはじめにおいて、それが権力と相似的な構造を持っていることが暗示される。そうすると、対抗暴力とは、やはり権力の再生産にすぎないのだろうか。少年たちは「洞察」によってたんに「先取り」しているだけなのだろうか。これはむろん実際の事件の再現ではないし、あくまで「現実」を模倣しながら再構成したものである。それゆえ、これは監督サントの明らかな意図であり、事件への解釈でありメッセージである。
 この映画を見て、救いがないとか「答え」がないなどといったせっかちな輩による無理解な「批判」があったらしいが、この映画の素材となった1999年のコロンバイン高校銃乱射事件に、「答え」とか「解決策」とか「救い」などを求める方が無茶であるし、たとえばそういった「救い」のステレオタイプとしては、残虐なテロリストがかわいい犬を殺さなかったとかがありえるが、そんなものが救いなのか。
 あの黄色いシャツを着た金髪の少年はある意味、そのような「救い」として機能を果たしているといえるかもしれない。しかしそれが「救い」かどうかはともかくとしても、雲=歴史はそんな「救い」もあるいは「絶望」すらも無視して流れるわけで、では達観すればよいのかということでもなく、つまり「答え」を求めることはそれはすでに問題の次元が異なるのである。