中傷について

公演も無事終わり、一方で、里見惇(とん。弓へんが出てこない)のご子息である80歳のなんとか理事長という方や友人が私の踊りを気に入ってくれたり、他方で、悪意ある感想をぶつけてくる下品な人間もいた。
 「下品」というのは、「感想」などと称して、お前のやってることは無価値だといとも容易に「裁く」その仕方がそうなのであり、連中はそうやって、言い捨てることで、なんら責任を取ろうともしない、まったく無責任で、無礼で、卑劣なやつらだと思う(その下品な女性は「よくなかったわよ」と言い捨てるかのように目黒駅で電車を降りていった)。
「毒をもって毒を制す」という最近の同種療法モードからいえば、こうした卑劣で下品な罵倒に対しては、同じく罵倒で返すのがいいのかもしれない。なぜなら、連中に、正論をいったところで、はじめから聞こうということをしていないのだから。(ここで、セリーヌを思い出す。)
 というか、そもそもそうのような下品な中傷それ自体が、まったくもって無価値なのである。
 「趣味にあわない」とか「分からない」とかいうのは、自己の領域あるいは限界をわきまえたごく穏当な判断だし、私もそれはする。
 中傷がどうしよもないほど愚劣で、またそれが暴力というべきなのは、そうした限界をいとも簡単に超えて、つまりはあるべき配慮を無化して、図々しく、「発言する権利」を「裁く権利」として変換させるからである。そんな「裁く権利」などそもそもない小人に限って、権威にすがったうえで(つまり自分を庇護するある「業界」なり「居場所」を傘にして。つまり「ブトー」というやつだw氏ねよ「ブトー」信者。)、そしてそのことによって力を虚飾し、増幅させたうえで(むろんそんな虚飾された「力」などはくずなのだが、アドルノらの研究をまつまでもなく、こうした権威主義的人格というやつはまさに「多数派」の心性であるがゆえに、人間に普遍的な醜さとして問題である。ファッショ!)一方向的に流してくるからである。
 
 つまりそれは相互に意見を交換するような「議論」には絶対にならないし、そもそも「コミュニケーション」ですらない。強いてコミュニケーションといえるかもしれないのは、中傷を受けた主体(ここでは私)が、こうして「反応=リアクション」をしているということだろうか。あるいは私のこの罵倒への批判文が、読んだ主体に与える反響とかか?しかしこれは瑣末な寄り道だ。
 
 もちろん私だって、「腹が立つ」ような上演や映画やドラマも音楽も多数ある。しかしその「怒り」はほとんどつねに、それらのあるイデオロギー的な傾向や制度的な圧力などの、いわば「権力性」に対して向けられるものだ。
 「面白くない」ものなんて、腐るほどある。知人の作品だってそうだ。私はそんなとき、「お世辞」でごまかすこと、つまり、おもしろくないものをおもしろくないといわないのは、感情の真実からいえば虚偽だし、またその作家主体がその次元で満足していくと、どうにもならないと思うがゆえに、ときどきは、そのひとたちを鼓舞するための技術的な問題を指摘したりもする。ただ、やはり「面白くない」とか「悪い」などと「言い放つ」ことなどは、絶対にしない。はたしてそれは感情への虚偽だろうか?
 そうではない。行われるべきは、なぜその対象が「おもしろくない」のかの分析である。たんに言語化される以前の感情や情動のレベルでの悪感情をぶつけるのは、やはり礼儀というコードを失ったもので、卑しい行動である。
 同様、「がんばった」ことを根拠に、「いい」と価値付与することもまたできないのだ。そんなガンバリズムなんて、古臭い精神論の常套にすぎない。
 さりとて、批判や感想は、感情から離れて、技術的な問題のみに限定されるべきだろうか?
 しかしまた、ことは技術の問題でもないのである。すくなくとも技術の問題だけではない。
 
 問題は、なにが問題なのか、なにが問題とされるのか、なぜこのものは面白くないのか、その条件の分析と、未来の展望をいかにして行うかということなのだ。
 ここはやはり文脈的な問題とでもいうべきなのだろう。
 つまりこれは状況や時代の流れ、社会の価値の流れのなかで、どのように位置づけられるかという、またも政治的な問題なのである。
 「古い」とか「新しい」とかいう価値評価も、「いい」「悪い」という価値評価も、ある社会化された価値評価の座標軸を前提としている。その意味で、実際には、ほとんど、「個人的な意見」というのは、存在しない。むろん、そのような「個人」は、あるいは「個人」なるものがあると信じているひとびとは、自分の見解を、「個人的な」ものだと見なしているだろうが。実際には、価値観のなかのある勢力に帰属することを選択しているだけなのである。いいかえれば、それはある小さな集団的な価値観にコミットしている、というか、「私はここにいますよ」という帰属先=居場所を表明しているだけなのだ。
 こうして、「個人」なるものが厳密には何を意味するのかということは大問題のひとつとしておくとしても、その「個人」が社会のなかに埋め込まれているのは、明らかなのである。社会は「個人」が成立するための条件となる存在といっていいからだ。
 
 「古いもの」と「新しいもの」とのこうした折衝を、たしかに避けることはできない。こうした折衝なしに、創造はもちろん、ことは芸術に限らず、社会そのものも動くことはない。
 
 これはまた、「よい批評」とはなにかという話しなのである。よく批評もどきの自称批評で行われることは、ある作家(と「なりたい」)主体に対して、その作家の甘い自意識がどうのとかいうことが取り沙汰される。しかしむろん、これは低次元の批評なのであって、というか、批評の倫理を持たない、まったく無責任な「個人の意見」の吐露にすぎないのである。つまり、そんな批評自体が、あたかも自分は超越して、「裁く権利」を持つことを承認されたかのように振舞っていることだけを示しているだけなのだ。
 
 舞台批評紙と銘打っている雑誌にもそうした自称「批評」が多数載っている。
「シアターアーツ」のいつかの号にも、笠井叡というひとりの偉大な舞踊家に対して、大野一雄にくらべて、無価値、と中傷しているものがあった。
 (この文についてはあとでデータを上げる。→「シアターアーツ」2004秋号、杵渕 里果「うたかいはじめによせて―― 大野一雄フェスティバル2004」。引用し注釈しながら切るまでもなく、中傷の骨子は、というか中傷に骨子もくそもないが、うえのとおり。)
 
その中傷は非常に次元が低く、とうてい「批評」とはいえないものであるし、そもそも「批評する眼」を持っていないがゆえに、その舞踊の価値を理解することができないだけの話である。自分の批評家としての無能ぶりをたんに晒していることに気づきもしない、まったく、「肥大した自意識」というやつがそこでは観察できる。
 その文の責任はその自称批評家に帰すものだが、同時に、そのような文を掲載する雑誌の責任でもある。
 私が「シアターアーツ」を絶対に買わないのは、そのような文を掲載させたからである。まあ、これはほとんど身内のもめごとなのだが、それでもやはりこうした小さな「悪」はひとつひとつ潰していかないといけないのである。
 
 ネットでの匿名書き込みによる中傷や、匿名でない者による出来損ないの批評もどきなどに対しても、いままでは無視してきたし、このような中傷に対しては、無視がもっとも賢明であるという考えを採用してきたし、たしかにそんな虱のような連中(虱が可哀想ではあるが)などは相手するのが時間の無駄ではある。
 
 しかしながら、たとえば上演の受容を巡るこうした問題には、たとえばファシズムという社会形式や権力の形式を支持している徴候が読めるわけなのだから、やはり問題ではないとはいいきれないのである。
 
 
 いまちょうどゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」を読んでいて、そのなかで演劇界で生計をたてることの苦しさよりも、普通の職業を選びたいとする俳優に対して、ヴィルヘルムが、「君が自分自身の内に、君をあますことなく感じ取るならば、他の人の中に自分を感じ取ることができる場所と機会をきっと見つけ出すだろう」(岩波文庫84頁)という言葉があった。ヴィルヘルムの提言は笑えるほどに生真面目で、かつさすがのゲーテらしく、説教くさくも、高度なのだが、むやみな中傷ばかりにかまけている連中というのは、たんに自分と他人とに出会い損ねているのである。そして、そのひずみを、あろうことか、自分で処理するという最低限のモラルすら見失い、他人に押し付けてくるのである。

 つまり中傷家というやつは、「自分」の居場所が違うだけなのだ。つまりは、自分探しをもっとしたらどうかということ。