days  …マルクスのアメリカ

appleから連絡なく、もうだめっぽい。とりあえず、諦めることにする。
新しいPCを買うしかない。

 それゆえ、これから日々、全くネットにつなげないわけではないが、つまり、家族のを借りることはできないことはないが、それでもお互いに生活時間が異なるだけでなく、互いに仕事もしているので、頻繁にはネットを見るわけにはいかなくなる。

 すでに年末あたりから、更新を義務とする考え方からすれば、大いにサボッてきているわけだけだが、購入するまでは更新できない。
 
 
 すでに九州から東京へ戻ってきているが、九州のことで書きたいことがあるのに、書く時間がないし、下手に書いても、どうにもならないと思え、どうするかと考えるも、断片であれ記さないとまた書く機会を失いそうであるがゆえ、ちょっとだけ。
 
 
 SとN先輩と会う。数年ぶり。福岡は相変わらず元気でいい。

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佐世保はといえば、行政が何の考えもないがゆえ、若者が離れてしまい、過疎化っぽくなっている。もちろんこんなことは10年前からあった徴候だが。
 佐世保市は観光資源があるからといい、たしかに九十九島など日本三景に入れてもいいほどであるが、観光などに頼ってはだめだろう。社会が元気でなければだめなのだ。都市としての客観的価値をはるかに越える税金徴収も、律令制かよ!といいたくなるほどだ。もっともこれは日本全土に渡る問題だが。つまりそこに住む市民が、多様な仕方でできる限り豊かな社会生活を営めることがどの都市においても重要なはずだ。それを官僚は市民に分配しようとはしていない。すくなくとも、そのような政策が採られているとは思われない。
 また、アニータだけでなく、どれだけ不祥事が続こうと、決して反省に至らず(なぜなら「反省」が「謝罪」に還元されているから)システムの改善につながりそうもない現状を見ると、公務員天国つまり税金天国に寄生する国家エリート及びそれに追随する層によって形成されている日本社会の傾向は、そのまま「国家社会主義」と呼んでいいとすら思われる。つまり日本は資本主義ですらない。
 かのマルクスは来るべき共産主義社会を、高度に発達した資本主義社会の次の段階として構想し予見したが、20世紀の実験では、そうはならなかった。
 20世紀における共産主義運動についてはまた膨大な仕事が必要なわけであるが、とりあえずそのことは置いて、マルクスの構想に戻るとなると、今日、アメリカこそが共産主義社会に最もふさわしい国家となるのだろうか。
 このように考えたことはこれまでなかった。このことはまた考えてみよう。


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 福岡は今泉の複合施設「季離宮」にある「煉」でステーキランチを食べる。うますぎる。ランチだと3000円で、この味からいえば、安い。野菜やデザートもおいしい。
 このお店は友人が経営しているので、もっと情報を載せたいのだが、これについてもまた後で。


 ちくまの文庫新刊の「ラカン」は漫画つきの入門書だが、これはいままで読んだ入門書のなかで最も優れていると思う。
 
 それと関係しもしているのが、バディウの「哲学のためのマニフェスト(哲学宣言)」を飛行機のなかで読む。
バディウの「存在と出来事」は藤原書店から近刊予定とのこと。レヴィ=ストロースの「神話論理」のように遅れないことを望む。バディウの「主体の理論」は邦訳予定はないのだろうか?