主体の理論:バディウ

最近、バディウの哲学が面白くって、「客体なき究極の主体」という論文を読んでいたら、主体という概念を真理の断片とか、真理の局地的地位とかいうふうに定義していた。
 はじめは分けが分からなかったのだが、歴史のなかでの話しになって、一気に話しの論理が見え出した。
 キリスト教のことでいえば、出来事とはイエスの誕生であり、真理ないし真理化とはそこからの継承のことである。つまり真理とは手続きという概念に関係するものである。もっと分かり易くすれば、とりあえず真理を手続きと見なしていい。
 なにが真であるのか何が偽であるのかは、政治的な正当性を巡る場合でも、数学的な論証の場合でも、ある手続きを必ず通る。
 重要なのは、真理がある実体のようなものとして、存在しているわけではないということである。
 論証不可能なある絶対的なものとして、真理があるわけではない、ということだ。
 
このような見方は、デューイらのプラグマティズムにおいても見出すことができる。

 さて、私が驚いたのは、主体の概念を、真理の断片として考えるというやり方に初めて出あったからだった。
 たしかに、主体は、なんらかの真理なしに存在することに耐えられない。完全な無意味があるとして、あるいは素朴な意味での空虚のようなものがあるとして、そのような空虚あるいは無意味に晒されつづけては、主体は生きて動くことができない。
 
 ニーチェは価値の哲学を展開し、またマルクスも経済的政治的社会的な価値の社会学を展開した。これらの動きをいま、価値論といえば、この価値論と、言語哲学でいうところの意味論とを、相関させて考えることもできるかもしれない。

 バディウの主体ー真理論を私なりにパラフレーズすれば、主体はなんらかの形で真理に向かうのであり、それは一般に「生きがい」とか「人生の目的」とか「人生の意味」という具合に表現されている。
 真理への志向性は主体の、あるいは欲望の本質のひとつである。と、考えると、主体が真理の断片、真理の一部であるという論理の展開にも納得がいく。

 バディウは、集合論を研究するなかで、このような主体の理論を展開していったという。
 バディウの主著「存在と出来事」の翻訳完成が俟たれるが、「哲学宣言」や上記論文などのダイジェスト版でも十分興奮できる。
  
 それから、集合論を知りたいと思い、とりあえず途中で放棄していた講談社現代新書ゲーデルの哲学」を読み始める。これは数学専門の術語をできる限り排除し、一般的な言語でゲーデルの仕事を紹介しようとしていて、この手の入門書にありがちな冗長さがない。無駄がなく、とても読みやすい。

 ゲーデルの理論もぜひできることなら理解したいと思うが、ウィトゲンシュタインに似て異なるその劇的生涯が魅力的である。というか、読むのは二度目で、その輪郭も知ってはいたのだが、感動してしまった。というか、泣いてしまった。
 これは家族関係に不幸のあったものしかわからない事柄だろうと思う。

数学への憧憬は大学生の頃に芽生えたものの、結局その後、再燃することはなかったが、最近、蘇ってきたかもしれない。
 
 このように関心が変容できたのも、バディウのおかげである。

それから、デイヴィッドソンもタルスキの理論を応用したというから、こうして、最近自分の関心が好む方向に、集合論数学基礎論があるのが分かった。
 
 昨日、書店にいったら。折しも青土社の雑誌「現代思想」のゲーデル特集号が出てて、この時機に驚く。
このような偶然の一致というか、時機の符号は、時々あるが、不思議である。