賀正・可塑社会

新年あけましておめでとうございます。
昨年末は記事もいくつか書き始めては忙殺のため中絶、工事&会議&事件&勉強会の日々だった。
とりわけ12月14日の佐世保の銃乱射事件については心痛ましい。だが、この事件について書いていたら、機械が突然「予期せぬ理由で終了」。すでに年が明けてしまった。
 ということで今年を希望的に展望する。
 といいながら、事件について振り返る。
環境管理型のセキュリティ・公共安全の強化なり銃規制の強化よりも、地方社会の硬直さなどを問題化しない限り、家庭用品であれ凶器になりうるのだから、なんの解決にもいたらないし(完全な犯罪防止をするには「マイノリティレポート」のように未来を予測することが必要だろう)、安全管理の観点からしても、凶悪事件は社会にとっての「試練」として捉えないと、次の機会に臨めない。
 地方社会が、かつて持っていた「地域性=共同性」も、過疎化、車社会による「個人化」、三浦展のいう「ファスト風土化=郊外化」などによって破壊されているという現実が基盤(温床)となり、諸個人の意識における「妄想」傾向の強まり、コミュニケーションの「過疎化」による疎外感覚の増大、をもたらしている。
 またこれらはジクムント・バウマンのいう「液状化」などといった現在のより広い次元での社会現象の特性とも絡めていく必要もあるが、いずれにせよ、あのような事件の生成過程を「理解」するには、そうした分析を踏まえないと、犯人の「固有性」に問題を回収することとなる。そしてその「固有性」は、語義通りの意味などなく、ひどく「一般的」で「陳腐」で「幼稚」としか判定しようのないものであった。そんなところで終わっては、被害者の霊も浮かぶはずがない。

 規制強化の論調にみられたのは、多幸症を担保とした厳粛主義(リゴリズム)であり、それは一時的に厳粛気分に浸り、黙祷を捧げるようなものである。
 捜査本部は28日の発表において「動機はわからないままかもしれない」と発言したと報道されているが、これは犯罪への「敗北宣言」とも「匙投げ」ともとられるような内容であるし、また動機が分かったところで、犯罪の構造的基盤である地方社会の状況を変えないと、また別の事件が生成する。つまり動機がなんであれ(動機は「妄想」的思考によって形成されたことは明らかだ)、繰り返しになるが、その動機となった思考(妄想)形式がいかに発生したのかを解明しなければならず、つまり地域、地方社会、地方都市の分析こそが必要である。もっとも、動機の分析などは、たとえばカポーティが「冷血」で行ったような、時間と想像力の限りを尽くすことを求められるのだろうから、その意味では社会全体の仕事であろう。

 佐世保での活動をいよいよ開始しようと帰省しようとした矢先の事件であった。
事件が発生した直後、電話で私は知らせを受けた。小松川事件と金嬉老事件について討議しているある勉強会での煙草休憩の時だった。
最初に軽く頭を打ち付けたような衝撃があったが、すぐに、こんなことは佐世保のような地方都市では十分起こりえることなので(実際にはこの手の事件は地方であれ都市であれ起こりえる)、まあ犯人逮捕を待つしかないと気を落ち着かせた。しかしついで佐世保の親族から聞いた電話では、犯人は米国人(米国兵士)であったかもしれないと聞き、戦慄した。
バブルがはじける前、89年頃か、20年ほど前のある夜に見た、米軍兵士(米軍基地関係者)だろうと思われる外国人が佐世保の繁華街のゴミ箱を漁っていた姿の強烈な印象を思い出した。サブプライム問題だかで、米国バブルがはじけてドル暴落とかなんだとか語られている現在、その不安や軋轢が若い兵士に襲いかかるのも無理はなく、会員制スポーツクラブに集う佐世保の「有閑階級」(実際にはこれもまた偏見的な「了解」である)に、不定形の不満を暴発させた、というのも、変な話ではあるが、ありえない話ではない。実際、「基地の町」という印象の強い佐世保で起こった事件ということで、マスメディアでも、外国人(米国人)説の可能性を報道していたらしい(以後2チャンネルで延々揶揄された)。
佐世保といえば基地の町であり、沖縄と同様、米軍兵士による暴行説の可能性を信じるのもしかたない。いかんせん、その時犯人は逃走中であったのだし、現場の目撃者の発言くらいしか、事件の形を知る手がかりがなかった。
 犯人が日本人であれ外国人であれ逃走中というのは、たまらなく不安であったが、すぐに佐世保に向かったところでどうとできることもないし、とりあえず経過を待つしか選択肢はなかった。それから翌朝になるまでは、不穏な気持ちに包まれていたが、私などより佐世保にいて、しかも前日ルネサンス佐世保に行き、その日金曜日も行こうかとしていた弟は、携帯電話もとることもできず、衝撃と恐怖で震えていたという。かれは自分でも別件でチキンだなと言っていたが、やっぱりチキンだなとはいいながらも、犯人逃走中ともなれば、そりゃチキンになるしかない。翌朝になるまでは、もし自分が現場にいたらどんな防御がとれたろうか、あるいは逃走中の犯人とはちあわせになったら、どうするべきなのか、小中学くらいの時、サバイバルゲームとかミリタリー遊びに軽くはまっていた経験の記憶を動員させながら、やはり自分でも銃を持たないことにはどうにもならないなどと思ったりしていた。
 銃規制や米国の銃社会が話題になるたびに、日本は「世界一銃に厳しいから」といった自慰的で責任逃れ的な発言が跋扈するが、このときは、米国ライフル協会の言い分、すなわち自分を守るのは自分であるという「正当防衛」の考え方に説得されざるをえなかった。
 動機どころか犯人が特定できない間は、階級憎悪といっていいような、「中産階級」ないし「一般社会」への憎悪による無差別テロの可能性がこうして走っていた。
 事件は翌朝になったらとりあえずの「解決」をしていた。それも電話で聞いた。犯人は教会で銃によって自殺した、日本人だった、と聞く。37歳の幼稚な妄想男によるあまりに陳腐な犯行であったことを知り、犯人が特定されたことに安堵しつつも、すぐに、そのあまりの陳腐さが現在の地方社会の心性を現しているように思われ、うんざりしたものだった。東京の周囲では、この「教会での自殺」というのが、あまりに「映画的」つまり「米国的」で、笑いが起こるほどであった。
 日を追うにつれ、情報も増え、動機もほぼ見えるようになってきて、この事件はある意味で古今東西よくある昔ながらの恋愛妄想と妄想的復讐感情による暴行&自爆というところに落ち着きそうで、これは話のネタにもならないほどいよいよ陳腐である。
 はじめの壮大な恐怖感、そしてこれはもう米国との関係を決定的になんとかせんといかん話じゃないかという、巨大な問題化を予想させた、犯人のプレハブ的な舞台設定(ロケハン)の工夫も、三日たつと、不適応者による情けない人生最後のお祭りにすぎなかった。のちに犯人が黒魔術へ興味を持っていたということも週刊誌などでは報告されていたが、黒魔術的な儀式殺人をやるのであればもっと魔術理論に即したやりかたもあったろう。理論に則ればいいのかという話ではないが、つまり犯行はあまりにお粗末なものであった。しかしながら、このお粗末さ・陳腐さが、現在の日本の本質を見事に表現しているように思えて、なんともやりきれない思いになる。

 それから数日して、今度は長崎にいる同級生の自殺の報せを受ける。
佐世保銃乱射事件と同級生自殺とはなんの関係もない。だがこれらはいずれも地方都市で起きた。

 犯罪は、内容にもよるが、その社会の極限的な現れであることは間違いない。つまり、犯罪によって、その社会はある程度、形を形成していく。犯罪とは、社会の表現形態でもある。不安感や恐れを補填するための過剰な公安政策では、そのような「表現」を抑えることなど到底できないと思われる。対症療法的な政策では、つまりは「焼け石に水」なのだ。

 たまたま『昭和陸海軍の失敗』文春新書を読んでいると、今村均のような偉大な軍人の存在に慰められながらも、やはりあの組織体系は結果として最悪であったことをあらためて知るにつれ、本のなかでも触れられているが、あの「失敗」の構造的原因であった、日本のビューロクラシーの「無責任主義」や内部紛争(内ゲバ)については、ほとほと絶望させられる。なぜなら現在もまったくこのような責任あるいは責任主体を不問とする、問題的性格は改善されていないからだ。
 今回も警察官僚は、プライバシー(私事権)の侵害に抵触するから銃管理はむずかしいなどという言い逃れをテレビの報道ではしていたが、それを無責主義による問題の放置といわずしてなんというのだろうか。なぜ問題を一身に引き受けようとしないのか。それが市民の生活を保護する警察の職業倫理ではないのか。銃所持許可の問題を、私事権としてとらえることは、許可後の所持を不問としている銃刀法の欠陥を問題化できない(しない)ということだ。また、私事権というとき、それが米国であれば「正当防衛」という理念とともにあるのだが、日本国では、当然のように、正当防衛のための銃所持は認められていない。銃器のような暴力を前に一般市民は絶対的に不利な立場にいることを強制されている。
だからこそ、日本国で銃所持を許され、公安活動に従事する特権的な警察は、むしろ米国よりも、市民を守らないといけないはずだ。銃刀などの武器所持を一般には禁じる以上。
 …

 日本における集団主義の倫理の資本主義及全体主義の精神について考えると、事は今回にもちろん限ることではなく、これまで凶悪事件が起きるたびに、感情に訴える安全管理によってのみ解決としていくような、問題に直面しない、いわば「事なかれ」的な対症療法的な傾向が、「犯行動機」を形成する要素のひとつにもなるということが、あたかも分かっていないかのごとくだ。
 「日本のセキュリティは世界一」などという自己愛的な自家撞着がなんの慰めにもならないことを論理的に知るためにも、日本の官僚に、ゲーム理論のドリルを義務づけるべきではないか。
 たとえば割れ窓理論に基づくゼロトレランス政策のマイクロ的観点にしても、その有効性が謳われるのだが、すでに批判もあるように、その政策と犯罪率減少という結果との因果関係についてはしつこく分析されるしかないのだが、もともと「治安維持」については熱心な近世以来の日本国では、市民革命も経験することなく、したがってまた市民主体が形成されることもなかった。相応の努力もあったが、ゲーム理論的なプラグマティズムにいたるまえに、アメリカン・マイクロ・ファシズムのみが導入される。
 市民主体が形成されるには、独立・自律・インディペンデントの精神が前提となるのだが、江戸幕府の支配構造以来の「国家的共依存」関係が、総力戦体制にまた再結成され、また高度経済成長においても、集団主義が支持基盤となった。それゆえ、それらについて批判しようものなら「今日の繁栄を築いた原動力」を否定するつもりなのかとかわされ、例の如く集団主義によって封鎖する。
 そのような日本がまたゼロトレランス政策を導入したところで、「治安問題」をマイクロ化し、神経質に瑣末な事柄に拘泥することとなる。禁煙運動にせよ、ゴミ問題にせよ、「マナー」主義にせよ、それらはすべてこのことの事例である。
 市民主体なしのゼロトレランス政策の輸入とは、こうして、いわゆる前近代的で封建的な支配構造を強化することに終始する。

 

過疎化、「ファスト風土化」=郊外化問題にしても、「ジャスコ文明」をいくら批判したところで、資本主義下の価値観で生きている限り、消費欲望の感性を変革するのは、実際、難しいというより、不可能に近いだろう。これについては、いわゆる「まちづくり」問題になってきてこれもまた大変な課題である。急いでいまいうと、地域の商店街の固有性を見いだして行くという固有化の戦略と、ジャスコでもコンビニでもいいのだが、そうした大量消費主義のグローバリズムとは、これからも並存せざるをえない。「ジャスコ的なるもの」を排除することなどできないし、地方に「都市性」のイリュージョンを入れさせないなどという考えからすれば、まずはテレビ放映を制限しなければいかなくなる。
 ローカルな価値の再発見と固有化についていえば、それは「郊外化」への「対抗」としてモデリングされてはならないだろう。むしろ、すでにあるものの潜在的機能を見いだして行くこと、そして実験への勇気を持つことが地方社会には必要なのであり、都市の持つ力を換骨奪胎=脱構築しながら、社会の機能を高めて行くことが目指される方がいい。
 社会的緩衝材としてのコミュニティなりコミュニケーションの機会を増やしていくことはすでに方々で実験がはじまっている。
 個人主義化、個人化が進み、液状化が進行しているのは先進国に共通する問題である。展望としては、そうした液状化をむしろ肯定的な契機としてとらえ、社会がより可塑性を増していくことを目指すしかないと思われる。
過疎化に対する最も有効な対処を、可塑化とするということは、別段ダジャレ的な文字変換ではなく、今後ますます、とりわけ公共政策において求められることだろう。むろん、そこに住む人々こそが行政よりも先にこのことを認識しなければならない。

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ファスト風土化と都市性については、三浦展氏の文章がウェブで読める。
http://www.culturestudies.com/city/city01.html
http://www.culturestudies.com/city/city03.html

・矢作弘「大型店とまちづくり」岩波新書をチェック。
 
新年らしく。
・アジアゲートウェイ構想など。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/asia/index.html
液状化について
http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/simmitsuken.html

「日々」としてはヒッチコック「ロープ」が最高だった。
これまで幾人かに薦められてきた長谷川和彦太陽を盗んだ男」を正月に買い見る。長谷川監督にはやはりはやく映画を撮ってほしいものだ。