「民度」について

すでに書いたことだが、反復する。
とりわけ中国、韓国に対する、いわゆるネット右翼的言説の定型に、「民度が低い」という言い方がある。
 「民度」という語それ自体がどこに由来しているのか、だれが言い出したのかは、知らない。
とりあえず、私の考える「民度」の基準は、なにより批判の自由がどの程度まで社会のなかで働いているかということであり、ついで自分の帰属する国家(近代世界にあって「無国籍」というのは不可能であり、もしそれをいうものがあればそれは欺瞞である。「亡命者」や「難民」については、また別問題である。)をどれだけ批判しているか、批判しうるのか、ということに求められる。
 この基準からすれば、中国政府の公式見解をただ反復するだけの中国国民も、韓国政府の見解を反復するだけの韓国国民も、日本政府の見解を反復するだけの日本国民も、米国政府の公式見解をただ反復するだけの米国国民もいずれもが「民度が低い」。
 自分の帰属する国家を批判することができるかどうか、それは、どれだけのリスクがあるかによって、国ごとに異なるとはいえ、やはり普遍的に擁護されるべきものだ。
 批判の自由が第一次的な基準だとすれば、ついで、責任主体を明らかにする、つまり、それはだれがいっているのかを明らかにするということが基準となる。これは単純な話でもあって、自由と責任ないし義務とはつねに補完的な関係にあるということだ。
 
 …とはいえ、「民度」というとき、その単位はあくまで「国民性」であり、その国民性より外れるもの、例外者などは、あらかじめ排除されているので、そもそも「民度」という概念自体が、意味内容の偏った概念である。すくなくとも狭隘で、あまり役に立つ概念ではない。
 「民度」の特性というより、その言説の質、論理的な妥当性や、建設性や肯定性、そういったところから判断されなくてはならない。