ジジェクと邂逅

青山で折り込み終わったあと、古本屋でジジェク「身体なき器官」購入。身体なき器官
新刊で買う寸前だったので、ラッキー。でも新刊を古書店で買うというのは、みなやることであるが、不思議なのはそのルートだ。まさか購入したひとが読んで売るわけでもあるまい。推測だが、出版者の人間が売りに来るか、そういうルートがすでにあるのだろう。そのルートがあるとすればそれはどういうものか。以前、高円寺の都丸書店で働いていたころ、書店用書店によく行っていた。まるスの鈴木書店は、まえに倒産したと聞いたが、その後もそのままなのだろうか。あの本屋/問屋に入れるのは、書店業者だけだから、いま考えると、ラッキーだった。ラッキーラッキーいいすぎだな。
 ジジェク序文。邂逅、対話ではなく。哲学と対話。対話が嫌いなドゥルーズプラトン、対話は哲学史におけるもっともきわだったアイロニーだ。後期対話編における「そうだねー」あいづち、うんぬんつまりモノローグ化。バディウ哲学とは公理的である。哲学史におけるあらゆる偉大な「対話」は、おおくの場合、誤解である。生産的誤読。哲学の社会的機能。ギャップ、間隙。哲学の基本的身振り、世界という構築物のただなかに内在する根源的ギャップ、存在論的差異、経験的なことと超越論的こととのギャップ。本書は「対話」ではなく、邂逅がつくりだす輪郭線を痕づける試みである。邂逅は象徴交換に還元されえない。対話は月並みだが、邂逅は稀有な出来事である。ドゥルーズ主義の問題。
 マドリッドのエピソード。リーン、ドクトルジバゴのロケ。インターナショナルの歌唱の撮影。それを聞いた近所のひとびとが、フランコが死に、社会主義者が権力を掌握したと誤解し、ワインを開け、街頭でおどりはじめた。
 本書はこうした幻想的自由の魔法のような瞬間と「正常な」現実への回帰によって挫かれた希望へと捧げられる。
 いやー電車のなかで読んだけど、読みやすいというか、まだ本編に入ってないが、あるうまさを感じる。こういう文をサクっと書くのはいい。ジジェクはまだ全体主義を途中までしか読んでおらず、従ってまだ一冊も通読していないのだが、この本は、なにせドゥルーズについてのものだから、楽しみだ。ドキドキする、これはほんとうに本でしか味わえない興奮だ。まあ哲学の本の興奮というのは、勢いで読んでも、記憶に残らなかったりする。あれはなんだ。ラクー=ラバルトのメタフラシスを立ち読みしてうわこれは買わないと買って、家に帰って、たしかその日、徹夜した全部読んだ。読んでいるときはなるほどなるほどと理解できないことはなかった。読んで、ああ面白かった。ノトつけないと、と思いつつ、つけないまま半年が経ってまた開いてみると、ずいぶん忘れている。ぼくは研究者ではないから、つまり専門家ではないから、ひとつのテーマに限定することができないのだが、それゆえか、新聞感覚で読んでしまう。むかしは学者になろうとしていたときは、なんでもネタ探しで読んでしまい、ついに読書の快楽を見失ってしまった。いまは再びそうした快楽を取り戻せるようになって、その意味ではすごく幸福だ。この調子で一生読書を続けたいものだ。
 イマージュオペラのドラマトゥルグであるというか、福岡時代からの友人である歴島行成くんの文章がcutinに載った。遊園地再生事業団についてのものだ。ぼくも観ていたので、それについてちょっと喋っていたのだが、書かないとかいっていたので、驚いた。よくまとめられている。いいんじゃないか。彼、演劇についてはそんなに観ていないのだが、さすが思想史家、よく読めるねえ。
 歴島くんは5年くらいフランスに留学して、いまプータローだ。ずいぶん長い間連絡を取っていなかったが、つい三ヵ月まえ、帰ってきたから会わないかといわれて会ったら、彼もぼくが踊りやってることに驚いて、話しこんだら、おいもやるよ!と言ってくれて、いまよく喋っている。シャトーブリアンの墓の彼方の幻想。喋るのもいいけど翻訳してくれ。
 ジジェク。邂逅ね。ミュラーとはパサージュあるいは出会い系サイトであるとこないだべつのとこで書いたが、邂逅、ですね!たしかに、ベンヤミン先生のいうように、それが人生の秘密なんだ。
 稽古は明日の通しのための整理。なかなか面白くなりそうではある。ぼくが出演するかどうかはいまだ未定で、そのへんでうだうだぼやいてしまった。去年と同じパターンだ。しかしこうも反復するとなると、なにより怖いのは父の人生の反復になりはせぬかということだ。親の破産を経験した作家にメルヴィルがいる。メルヴィルも絶対、その不安は持っていただろう。メルヴィルは晩年つらかったそうだ。メルヴィルの伝記が読みたくなった。