笠井叡「いとしいジャンポール2」

慶応日吉で笠井叡先生の上演/トーク。入場無料!演目はなんと「いとしいジャンポール2」だった。印象からいえば、花粉革命、ハレルヤがまざりあった、あいかわらずいい舞踊であった。稽古場で使用される曲も使われ、なんとも感情を引き起こされる。
ある独特なノスタルジアを私は、以前より先生の舞踊に対して、感じてきた。それは大野一雄先生とは当然異なるものだ。大野先生の場合はノスタルジアもありはするのだが、そういうことではないような気がする。大野先生の2年前だったかの公演「花」は、スタッフとして入りもしたのだが、荘厳だった。生と舞踊とが完全に一致したような時間だった。生命、宇宙、舞踊。そうしてその主題を、別の独自なやり方で継承しているのが笠井先生である。そうだ、花粉革命のとき、大野スタジオのkさんが、若い時の大野一雄を彷佛とさせるといっていたが、そうかもしれない。だが、笠井先生の舞踊に感じる私のノスタルジア感情は、最初に見た武蔵大学のときにも沸き起こっていた。
それはひとことでいえば、1970年代への感情である。失われた時代の情熱の痕跡とでもいえばいいのか。むろん笠井先生本人はそういうことをいわれるのはあまりうれしくないのかもしれないが、なにより私が引き付けられるのは、そうした失われた時なのだ。穴が穿たれた。時代に。その穴に吸引された時代のすべて、その時のひとびとの感情や情熱や空気が、その穴からまた出て来ているような。つまり笠井叡は、はじめより未来にむけて踊っており、未来への穴を穿ってきていたのだ。ブラックホールのように、なにもかもを吸い込んでいくような穴を、舞踊によって作った。そしていまもなお未来への穴をあらたに作っている。穴が穿たれる。穿たれた穴から、今度はホワイトホールのように時間が逆流していく。なにかが噴出してきているといえば、それは失われた時なのだ。先生自身は過去でなく未来を志向されておられるし、そのように志向するからこそあのような超絶舞踊が生成するのだろう。だが、一観客、一ファンとして固着するところは、過去か未来かという境界線がねじまげられる、時空間が、変容するその現場に立ち会うことができるということだ。それはやはり宇宙ともいっていいのだろう。今日のトークでもあったが、ミクロコスモスとしての身体が、自身の身体にとどまらず、さらに周囲の空間/環境/他者と、共振しながら、ある一個の、宇宙とでもなづけるべき時間空間のセットが誕生する。
 どう批判的に考えても、笠井叡の舞踊は、ある絶対的な価値をもっている。それがなんであるのか、いまだに分からないままだが、その直観だけは揺らがない。
 ある演劇批評家?が、構成ができてないとかあほな批判を言い出したことがあったが、そのときわたしはやさしく?、あれは舞踊を見るものなんですと答えた。そうだ、いまもそういえる。あれこそ舞踊であると。
 それにしてもあの舞踊を見て引き起こされる感情がたんにノスタルジアであるわけがない。
 ある絶対空間、絶対の舞踊がある。舞踊のゼロ度。
 そして、あるなにか大きい、否定性との闘争がある。それは大野一雄にとってと同じく、土方巽のことなのかもしれないが、もはやそうした固有名を超えたところにあるような、あるいは名前=言語のレベルに潜在するような非人称的な力の流れに接触しているといっていいだろう。
 舞踊が粉々に砕かれている。その破片が再構成されまた破壊され、その反復。
 今日の踊りを見て確認?できたことは、たしかにずたずたに舞踊のコードが壊されているということだった。以前より舞踊家笠井叡の舞踊について、なにかまとめたいと考えながら自身の舞踊を創造せねばならないとかで果たせなかった。しかしなにか言語に翻訳していくことをしないと、感覚されただけでは、対象は消えて行くものだ。
 ジャクソン・ポロックとの比較対照。
 宇宙的孤独について。コミュニケーションとはなにか。コミュニオン。交流…
 公理的舞踊。
 モノローグの絶対性。それが音楽や建築や絵画とも共通する舞踊の基本性格である。
 俗への憧憬。俗情との結託、そしてその不可能性について。
 
 そういえば、吉田ユキヒコ君が以前「拡散美」といっていた。
 
 なんにしてもやはりクロソウスキーの衝動論のあたりに理解?のヒントがありそうだ。
  あの動きの、破片はなにか。なぜあれに感嘆するのか。よく言われるように、あの年で、というのはある。だがそれはなにもいっていない。むろんあの年齢であの体力、あの運動は、奇蹟のようである。だがそれならば、テレビなどで放映される元気なじいさんに感嘆するのと同じだということだ。断じて、そんなレベルの話しではない。
 いや、あるいはそういう話しなのか。人間は、身体がなにをなしうるのかいまだ知らないままであるということ。あらためて、身体/運動が、…
 あの破片は、ひとつのしるしである。有形の徴。
 痕跡、記号の、自動運動。
 
 トーク。オルガン奏者であった先生のお母さんと「トマト」での共演。江口隆哉さんと先生のお母さんが知り合いであったこと。社会芸術のヴィジョン。サンシモン、フーリエの名も出て来た。牢獄としてのサンタンジェロ。稽古場でもなかなか聞けないことをずばり石井さんが聞いてくれるので、まことにうれしい。
 オイリュトミーの上演。
 舞踏的なるものの三つの条件。
1。絶対に同時代的であること。ボードレールランボーのモデルニテ。モダニズム。2。徹底した「内部」の探究、それは「内部」が「外部」でもあるという領域にまで至るということ。方法論。あるいは宇宙論土方巽の正当な理解として、これは解体社の清水さんにも通じる把握である。「闇」を「闇」としてではなくむしろ襞としてとらえること。
3。絶対に差別を認めないということ。これは平等、政治、教育の主題だと思われる。というか、そのように受け取る。あるいは、理念。社会芸術論。
 
 解体社のアダムさんが来ていた。そういえばアダムさん、イマージュオペラ>>モノブロック<<「この懐かしき蒸気」に来てくれたのだが、終演後、床とか壁とかよく傷をつけていたねと、指摘してくれた。炯眼だ。痕跡、マークについて。