人間の舞踊

御徒町で稽古。通し。曽我さんが来る。あと、笛田さんが、武富さんと、解体社の照明をやられている河合さんを連れてくる。構成を変えたので、また流しになったが、もう問題だらけだ。こういう時、穴だらけというのかもしれないが、ぼくからすればむしろ穴がなくて困る。埋められすぎているのか、いずれにせよ、いまだシークゥエンスにおいて線が形成できていない。本当はこういうことならこれから毎日やらないと間に合わない。台詞演技と異なるのは、台詞演技はあくまで台本があるし、それはフォーマットとしてそう変更することができない。ダンスの場合、いままでやってきたことがまったく結実しない場合、それはゼロになる。つまり、あるシーンは完全に削除されることになる。その意味で、言葉を直接的には使用しないダンスは、より空無に近い。意味には決して回収されないものがある。音楽は音、音素を使い、おもに時間に関与する。絵画は色と線とフィギア、かたちを媒体とする。舞踊は、身体が素材であり、空間内存在としての身体というところからすれば、空間を主に使用する。ここは彫刻や建築などの空間芸術と共通する。運動はといえば、ある動きなり形なりが、次ぎの動き/形へと移行していく過程であり、その移行の痕跡が、運動イメージを形成していく。
 このあたりの話しというのはおそらく記号論なんかで厳密に論じられているのだろう。
 ある画像、映像、視覚的像、表象。それらによる記述。
音楽による記述行為、ダンスによる記述行為。
 身体の空間性。身体の拡張原理。
 運動イメージ。時間イメージ。

笛田さんもいうとおり、たしかに言語演劇でも、意味に回収されないレベルというのは要求されるべきだろう。身体性とはそこにおいて出てくる。むろんはじめから発声なのだから、それは身体技法にちがいない。
 なにが異なるのだろうか。ある本質的な視点からは、なにも異ならないといえる。だが、メディア的条件というのはある。ダンスはやはり言語を使用はしない。すくなくとも分節言語は。パフォーマンスにおいては。
 もちろんそれまでは膨大な言語が、分析が堆積しているし、言語は前提ではある。
しかし上演において、それは直接的には使用されない。使用されたとしてもそれは意匠として、セノグラフィーとしてである。
 それはブレヒトがゲストゥスに着目したとしてもそしてそれはたしかに炯眼ではあるとしても、やはりプロット/ストーリーを追ううえでの意匠である。
 
 ここらへんは、ようはダンスの形式分析といえるのだろう。
 そうして内容分析というか、本質論的には、例の衝動論とかになってくる。
 ダンスについて考えるべきことはほんとうに膨大にある。いったいこれはなんなのだろうか。そうだ、結局は、踊りは人間の行為のひとつであるのだから、ダンスについて考えるとは、人間について考えるということなのだ。