@planB 365秒のindex.

綾原とけんかして…と、こんなの、もう暴露してどうすんのか。
こういう記述はやめたほうがいい。
ぶろぐ、日記、における公共性と私的領域…
私小説的自己暴露。それが悪いというのではない。私の場合は、そのおかげで、大分、ほぐれてきている。書くことは、自分を切り刻み、言語/文字という表象に、なんといいうか、ぬいつけていくようなこと、ともいえる。
私にとって、私の人生とは、さまざまな感情の起源であり、また、感情が通り去ったあとの痕跡がしるされた地理であり、歴史である。
通常、「人生」とは「総体」として、把握されるし、また、語用論的には、「そもそも人生とは…」と、反省的に眺められ、…一般化される。とはいえ、多くの場合、話者の個別的な「人生」への関与の仕方が、前提とされている…
 とにかく私にとって、そのような「総体」としての「人生」にはなんの興味もない。そのような人生などは、むしろどうでもいいものだ。なぜこのように考えるに至ったか。それも、もしかしたらどうでもいいのかもしれない。
 きのうか、グラムシを読み、グラムシを「愛読書」とするサイードに驚き(つまり快楽としての読書の対象に、グラムシをもってくるという、その度量に。つまりリゴリズムで読まないことの健全さ。)、グラムシの遺文は研究計画がおりまぜられたもので、たとえそれが状況分析であっても学習意欲に貫かれており、それゆえ、というかなんというか、理論的であり、その意味ではマルクス主義らしいといえばらしいのだが、ピランデッロを愛しもしたグラムシ、さすがにイタリア人、ルネサンス以来の人間主義につらぬかれた温かさがあり、その一枚岩的でないところが、おおくのひとを魅了する理由なのだろう、と思いつつも、それでも、やはり理論的には違いなく、一気に読むには少々しんどくはあった。だが、このような理論的なテクストは、以外と、小説や詩などよりも速読が可能なものだ。それは術語による経済性が働いているからだろう。
 上村さんの講演。グラムシ全体主義。「全体国家」。だが、そこにはサイードのいう「対位法的」思考…だが、スピヴァクの批判…
 ついで、アガンベン。剥き出しの生と、生の形式うんぬん。バタイユ批判とか。
 身振り論。重要。

 イタリア尽しである。そうして、パゾリーニの「海賊評論集」所収の文。
 これ、ノートをつけなくてはならない。身振り言語について。
 カルヴィーノとのけんか。
 パゾリーニのサイトに、写真が多数掲載されている。
 アッカトーネから、オスティア。
 「石油Petrolio」。イタリア語勉強したい。
 
 で、planB。「そのひとらしく」と言われたので、当初の予定を変更し、小道具、照明を使う。音は、用意していたが、またも(「マーカイム」と同様)ハプニングで、未使用。暗転。作業灯=蛍光灯。「1、2、1、2」。コード。電飾。古いスクリーンの裾は、染みで茶色になっている。電飾の方へ。投げ捨てられた体。即興。赤い穴。日の丸ファック。観念のために死んだ犬。3、2、1。指。暗転。電飾。
 星。光り=言語=認識。オイディプス形而上学への欲望。罪過としての。
 
休憩中、合田さん、村上さん。眼と意識の分離。センター移動の展開。すばらしい高度な批判。
 ミンさんの水中眼鏡。赤い衣。「こっちだ。アイムヒア」。初めてみる種類。これが、懐の深さか。
 planBとも関わりの深かったスーザン・ソンタグ、昨日、死去、との報告。デリダの後を追う形になった。はー。ばたばた亡くなって行く。追悼。
 ピエールさん、野沢さん。志賀さん、今年、私の公演をほとんど見たことになる。どうもです。
 初めて、planBの内側を見た形になった。斎藤さん、ありがとうございました。
で、冒頭の綾原とのけんかのことが遺されているのか。うーむ。ま、12年、続いて来た紛争の歴史。


 死、パニック。死を思考すること。いや、想起すること。
 死の練習。
 死に備える、死に臨む。
 崩壊、破局、カタストロフィー。
 死への抵抗。
 死は悪か?
 
雪。劇場へ行きしな、しきりにパゾリーニのことを想う。
パゾリーニを殺害したイタリア社会。アルトーゴッホ論。社会による殺害。
殺される前に、殺すしかないのか?殺されるがままなのか?

死と殺害について。
年末だから、こうなるのか。紛争が続いたからか。