世界はもはや私を求めない、そしてそのことを知らない。

DA・M、稽古二日目。輪郭形成。

無駄がない。すごい。いやー、ほんと、大橋さんにもいったけど、すごいっすよ。

小さな生。

6時で終わったので、神楽坂へ行けた。おにぎりやで食う。新人シリーズ。
びよさん。

みなさんと会う。

真壁さんも、パゾリーニには思い入れあるらしく、最初の戯曲はパゾリーニを題材にしたという。驚き。解体社の清水さんも、パゾリーニについては、深い思いがあるという。
まだ本人からは聞いていないが。
あの世代にとってのパゾリーニと、いま、ぼくの世代から見るパゾリーニとは
またまったく違うものだろう。
パゾリーニ。なんといえばいいのか。
一番好きというと語弊がある。
作品が、一番好きとか、そういうことではない。そんな無邪気にはもはやなれない。
なんというか、かれの生におけるその努力が、愛おしいというのか。
憧れる、というのでもない。やはり、愛おしい、のだ。
絶対に、私はあなたを擁護したい、そんな感情もある。

これは、不思議なことに、ジュネには感じないことだ。
ジュネについてはまだ知らないというのが大きいが。

やはり、「アッカトーネ」1961より、「マタイ福音書」1964、「メディア」1970、「ソドムの市」1975に至る人生の軌跡。

画集。Pier Paolo Pazolini.Zeichnungen und Gemaelde.1982,Balance Rief SA,Basel.

Il mondo non mi vuole piu e non lo sa

世界はもはや私を求めない。だが、世界はそのことを知らない。
世界はもはや私を求めない、そしてそのことを知らない。

スラム、神学、第三世界、資本主義、ファシスム。

世界の悲惨について。
くそったれ、くそったれ、言い続けていくしかない、ということ。
呪詛。
呪いだな、やっぱり。

世界が糞であるということ。
スカトロジーは倒錯というより、リアリズムであるということ。

「現実」というよりかは、「真正性」というがいいが、
世界/社会の真実の姿を、かりそめにであれ直視する機会をもった者にとって、
それを提示することが唯一の選択肢であり、

たとえそれがどれほど小さいことであっても、生とは、抵抗にほかならない。
抑圧への抵抗なしの生、順応主義=コンフォーミズムとは、たんに隷従であり、
それは生ではないということ。
隷従を受容した者は、こどもたちに隷従を強いる。
畜群道徳。
また、ニーチェに戻った。
パゾリーニニーチェパゾリーニはおそらく、当然、ニーチェを読んでいるのだろう。そのことに言及したものを私はまだ知らないが。

パゾリーニは、ニーチェを読んでいないと仮定する。すると、
なにがかれらを近付けるのか。
ある体験がある。性格もある。「運命と性格」
環境がある。
堪え難いもの、おぞましきもの。
それらへの憎悪。怒り。
あたかも世界に苦痛がないかのごとく、擬装する連中。
苦痛を知らない人間というのはいるのだろうか?
いないとすれば、それがさしあたって現象として存在するということを認知しないというだけのことだ。自分の子供なのに認知しない「大人」のように。
畜群道徳は、目的に奉仕しないものを、それに抵抗するものものを、殺す。
その目的とは、群れること。社会の維持こそが目的であり…

自然を支配することが人類の歴史であり、目的である。
自然などは、ない。
その自然に関わることは、進歩を妨害することである。
そうではない。
自然が問題なのではない。

社会の意志?
自己保存…
生が隠蔽される。
生が殺害される。

反転現象
転移

わたしの欲望が、だれかの欲望であるのなら、
わたしの生も、だれかの生であるということはできないだろうか。

大橋さん「あるひとの生は、他者にとってはフィクションである」
炯眼。

持続だよ、持続。
どうせおまえに渡された時間なんて、たかが知れたもの。
それなら、それを使い切ることしかないだろう。

ケチで怠惰な畜群は、ファシズムを勇んで作り、いとも容易にホロコースト
行う。スムーズな合理化のために。

パゾリーニ「文体の混淆」より

アングロサクソン系の作品の読者の、経験的非合理主義…

黒い海に、点在する炎

闇の火事、

放火

マルグリット・デュラス「愛」