悪魔

kairiw2005-02-28

なんか、ストッパーがかかってしまっている。この2週間、ブログを中断し、沈静していたつもりだったのだが、どこに潜んでいたのだろうか。aとチェスを続けてやったり。向こうは飽きてるのに、こっちはまだあと一回!みたいな。ちょっと、ジャンキーっぽいのか?もともとヘドニストではあったから…とはいいながらも、どこかで妙に、ストア派でもある。熊野古道の、森の上り坂を経て、空が開けたその山の頂で、エピクロス(笑)を開いて、みんなを待っていたのを思い出す。(あのころは修行僧だった)なにか先へ進めないまま、絶望しているのだろうか?すくなくとも、積極的に絶望しているわけではないような気がするが、もしかすると、これが、絶望なのかもしれない。20代の時の絶望のように、重くなれない。乾いた、というのがもっともあたっているかもしれない。
あるいは、「死の病い」以来、あるいは正月での整理以来の、情報吸収に対して、現在、絞り込みを行っているのかもしれない。自動的に?というか、「自然に」。感官が、過剰な刺激に対して、反応するように、意識あるいは精神もまた、そのように自己運動する、たぶん。というか、経験的に、そうだ。だいたい、「飽きる/厭きる」ってそういうことではないか?
じゃあ、飽きたのか?飽きて、厭きてるのか。そうではない。うむ、ただたんに、頭が一杯で、少し休みたいのだ。で、頭のなかはむろん、次回作のことだ。ダムのようにサクッと達したいものだ。こちらは、蟻のように、はいつくばって、そうして、なにも出て来ない、ということもないが、気が遠くなるばかりだ。あんまり気が遠くなるものだから、恐くて、手掛かりが欲しくて、他者の言葉を、求める。そうしないと、気が狂いそうになる。というか、死にたくなる。それで、死にたいのだ、とその死への欲動を確認したら、今度は、すうと不安のような、塊がさらさらと流れて行く。死の絶対的恐怖を前に、消え去る小さい恐怖の素。ということかどうかも、また知れない。しかし、そのように感覚される。いろんなことに腹も立つし、ほぼ毎日、なにか怒りの火で、自分の感情を煮もしている。コンソレーションが欲しいのか?
先日、aとyちゃんと、モーツァルトについて、話した。aは、モーツァルトは、気持ち悪くなる、恐くなるといっていた。バッハやドビュッシーにそれは感じられないという。yちゃんに、いろいろ話していくなか、結局、自分が何ものであるのか、どのような軌跡を通ってきたかの話しになる。アフリカへ、なぜ至るのか。マジック・サムのCDを買ったときのことを思い出す。熊本の、いいレコード屋だった。ストーンズインパクトから、ブラックミュージックにハマっていった。下宿で、ビールを飲みながら、n先輩と、マジック・サムを聞いたときもあった(たしか)。黒から、白へ、つまり西洋古典音楽へのデビューは、モーツァルトだった。あれは、なにか偶然、といっても、なにかあったのかもしれない。数カ月ほど、毎日、しかも、休日の昼間も、寝たまま、延々、ピアノ協奏曲を聴いていた。赤坂のガラス窓からは、冷たい、青と灰色が混じりあった光りがいつも差し込んでいた。部屋、部屋、いまも部屋だ。あの部屋で、悪魔祓いのように、音楽を聴く。いまでも、そのように聴くこともある。では、その悪魔とはなんなのか?なにが悪魔を構成するのか?不安とか、妄想とか、絶望とか、まあ、いろいろある。怒りだって、ネガティブな感情は、悪魔かもしれない。果たせなかった夢?しかし、夢はあっただろうか?ngさんにも言われたが、たしかに私の「将来の夢」は、「仕事にしばられず、自由に生きたい」であった。あれから、20年が経った。なにも変わっちゃおらんじゃないか!生徒を虐める教師も、むろん悪魔だし、くそ上司だって、そうだ。だいいち、魔女狩りをする、異端審問官こそ、悪魔である。…悪魔ねえ(笑)、いっぱい、いますねえ。自分にだって、悪魔は憑くしね。ということで、ふっと思い出すのが、アントナン・アルトーの「ロデースからの手紙」だ。
アルトーにおけるマニ教。また、「悪」の出発点であり、悪霊の所業でもある肉体。ニール「異端カタリ派」クセジュ。りんごの皮を剥くように、皮を剥がされていったマニ。