解体社
■劇団解体社が連作公演を行っている。必見。
制御系 anti-narcissism
生贄ー<歓待>の準備2.24[Thu]25[Fri]26[Sat]<私>的な人体 3.17[Thu]18[Fri]19[Sat]<不死>のウィルス 3.24[Thu]25[Fri]26[Sat]
開演/20:00 会場/カンバス FreeSpaceCANVAS
チケット/T\2,000 チケット取り扱い/劇団解体社Phone/Fax:03-5802-5387
email:gekidan@kaitaisha.com http://www.kaitaisha.com/
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2/24日、aとnさんと行く。海上さんはじめ、みんな来ていた。
朝までコース。海上さんと清水さんのケンカと、aとhさんのケンカ。焼酎に飲まれる。
要塞としての自己。
まなざしの制御について。
uさんとマーク・ロスコ。
アガンベン「開かれ」…
切り取られた光=世界=部屋のなかで、国家、民族の名が?列、並列されていく。涎、涙、鼻水、体内の水分が、排出されるということは、自己が、「社会的」自己が、溶解していくということかもしれない。訪れては去って行く、いくつかの名前。これはやはり、今日のすべてを隠蔽していくような、あるいはそれが陳腐な言い方だというのであれば、すべてを回収していくような、今日の、とりあえずは、「日本」という名でカテゴライズされるこの社会のスムーズな流れのなかに、穴を、裂け目を穿とうとする行為である。
その隙間に、覗ける「世界」。どのように見るか?覗くことによってのみ、ひとは見る。
目を見開けば、…しかし、わたしたちの目はまた、閉じようとする。
理解などということは、ありえないようにも思われる。しかし、理解不可能性に立脚してしまうことは、たんにシニシズムの立場を選択することでしかない。
どのような立場選択、ポジショニングがありえるか?
学習、ただそれだけだ。永久革命としての学習。あるいは模索、探究。
クロソウスキー、シェレールhttp://d.hatena.ne.jp/kairiw/20050131らによる「歓待」の問題化とその受容。
解体社の新作も、DA・M新作「Hap py Birth Day」も、イマージュオペラの「油田」も、期せずして、同一の主題を扱うことになっている。先輩たちと同一主題で上演するなか、若輩の私が上演していこうというのは、大変であるが、同時に、勇気も与えられる。
yちゃん、あの赤い光線によって、人物は、皮を剥がれて行くようにも見えた、という。
剥き出しの。
解体社におけるハードなあるいはソリッドな形式性は、かなり確度が高いものだ。
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翌日、稽古。
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G.S.フレイザー「エズラ・パウンド」佐藤幸雄訳、清水弘文堂1979
スティーブン・スペンダー「エリオット伝」和田旦訳、みすず書房1979
M.ホジャート「諷刺の芸術」山田恒人訳、平凡社1983
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打ち合わせ。yちゃん。aの饒舌。ヴァイオリン、ピアノについて。