意志…ファシスト美学…ダンディ

ダム通し。というかゲネプロ。風邪のおかげでちょい抑制したのか、関係、空間が以前より見えた。
oさんが、昨日、舞台を、山の稜線に喩えた。光りひとつで、ごくわずかなことで、大きく見え方が変わる。
影と光りのように。

aがやっと病院に行った。

tさん、nさんと、アナキズムについて。白身魚、葱、春菊、たらの芽、菊、ワサビ、鰹、…酒を我慢する。非常に、つらいが、堪えることができた。一口だけでも、飲もうかと幾度も思うが、我慢。減量中のボクサーやアルコール中毒治療よりは、ましなのだろうが。
 しかし、我慢とは、とりあえず意志の力である。それは「健康」であるとか「回復」とかの目的観念、あるいは現状からすれば、むしろ「義務」の観念に導かれるものである。導かれるというより、当為ではあるのだが。「意志の力」。ショーペンハウアーからナチス・ファシスムまでも、また一直線ではある。ソンタグのファシスム美学論、まっとうで正当であるが、実際、さらにつめて考えていくと、つまりナチズムの特性を見失わないように努力しつつ、理論化という一般化の作業を詰めて行くと、どこからファシスム美学で、どこからそうでないか、線が見えなくなる、気がする。このことは何にでもいえることだが。「健全な美」を称揚することも、死の美学その他も、あるいはマッスの美学も、どこまでナチス美学(ソンタグはこの表現は使わない)に固有な事態なのか、どこまでそういえるのか、やはり考えてしまう。ファナティシズム=熱狂主義について、リオタールがたしか「文の抗争」で論じていたが、しかしまた「熱狂主義」と「熱狂する」こととは当然違うとしても、ある対象に対して、熱狂することは非ナチ美学においても存在する。このような議論は幼稚ではあるが、しかし私の疑念をソンタグのあの論文が完全に払拭したわけではない。といって、ソンタグを批判したいわけではなく、そのまっとうな整理で、頭が少しすっきりしたわけではあった。
 ショーパンハウアーの「意志と表象としての世界」もまだ途中までしか読んでいない。ベケットフーコーが、みんなショーパンハウアーを馬鹿にするが、大変面白いといっていた。ところで、ショーパンハウアーはなぜ馬鹿にされるのか。最近はもう完全に忘却されてきて、新たに、「古典」と化したが、以前は、若者が飛びつく人生論的哲学として消費されていた。そのせいなのだろう。悩める青年。
 ライプニッツ著作集のどこかの解説で、ショーパンハウアーとライプニッツを繋げて整理されていたが、忘れてしまった。
 マッスの美学と群集の美学も同じといえが同じであるが、ポー=ボードレールによる群集の美学と、古典建築美学上の「固まり」とはどこが、どうなのか。あーあ、このへんも、ひとつひとつじっくり考えて行きたいものだ。
 私がいいたいのは、ファシスト美学と完全に手を切ることは可能なのかということ。ノート取りが億劫で、というか、「時間がない」(この資本主義の決まり文句)ので、どうしようもないのだが、コミュニズム美学が中性であるとか、それに対して、ファシスト美学は性的な隠喩を使用する。と、ソンタグの「制服美学」論はいう。いまは遠い記憶ともなった「学ラン」の美学も、まさにファシスト美学である。私服主義者であった私は、多くの同級生が、「学ラン」の方がいいよ、といっていたのを思い出す。それは、私服による虚栄のための「衒示的消費」に使う金のことを配慮したものだった。
 服飾についても、かつてはある統一的な美的(?)モラルがかなり強烈に働いていた。いまはもう、おそらくは弱まっているのかもしれない。とはいえ、いまだ「制服」は存在する。そしてそれを美的に享受するコードもなおある。
 このあたりは、ド・クィンシーやボードレールバイロンやドールヴェイら、19世紀の「ダンディ」(一時はそれギャグ的な語でもあった、あるいはいまなお)の戦略の話しに、連なって行く。ロジェ・ケンプのダンディ論はかなり面白いものであった。
 しかしまた、久野収さんか日高六郎さんかが述懐していた。モボ・モガにある「抵抗」を期待したものだったが、それはことごとく裏切られたと。
 それはまったく、そうだ。
そうだ、趣味はむろん安易なものだ。いかようにもたなびく。しかしそれが原理化されれば、ある詩的な追求になれば…
 美と政治のまたあの悪循環の話し。
結局、このへん、つまらないがまっとうな見解としてのピエール・ブルデューの「界/場champ」理論を再び繙かなくてはならない。