ANGST!

グラス行きたいが、この値段だと行けず、CDを買うことを優先することになる。というか、購入したくていまだ購入していないCDが、無数にある。それにしても、どうしたらいいのだろう。とは、10代のころから悩みながら、時が過ぎて行った。結局、CD購入は、あきらめたのだが、その分、本に行ってしまった。コレクションの欲望がそうさせるわけではない。持っておきたいものは、わずかだ。そうではなく、やはり、聞きたいのである。新しい音、いい音、面白い音を…感官を喜ばせることが、結局は、目的であり、理由なんだろう。まあ、それでも、一年、毎日、同じジャンルばっかり、聞いていたた、さすがに飽きる。とかいうことを書きたいのではなく、複製技術時代の陥穽をどうにか食い止めるひとつの方法が、ライブに接することだ。どういうことか?きょうも、映像作家のjとその話をした。別に、ライブが特権的だとは思わない。が、複製技術もまた、特権的ではない。とまれ、複製技術を介した認識と、直接、身体器官を通じた認識とは、やはり、体験的にいっても、異なる。とはいえ、たとえ映画だろうが、CDだろうが、絵画だろうが、その対象へ没入する・集中する時間が、明確に刻印されれば、それは体験になる。なにがなんだというのだろう。なにが問題なんだろう。ライブ体験には、ある空間の共有がある。空気、雰囲気を呼吸できる。よりダイレクトである。…陥穽の話しだった。その陥穽とは、「部屋」への内在?いや、内在することがただちに悪なわけがない。結局はこのへん、内と外、自己と他者、みたいな話し?それはつまらない。そうじゃなくて、所有欲を禁欲すべきだということ。しかし、所有することなど、結局は不可能なのだから、それははかない人間の夢ということだ。所有か。私的財産の所有か(笑)。なにも持たないという戦略あるいは修行?無私の精神?そうなると、知識を所有することもまた否定さるべきとなる。知識と知恵あるいは認識とは違うといったって…。所有。ある一定の経済的条件を満たさないことには、生活は破綻する、といわれる。古インドの生の技法のような悟りを求め、認識の苦行。しかし、それは資本主義の経済倫理においては、認められない。ホームレス/路上生活者のなかにも、パターンや理由はひとそれぞれだが、そうしたある「悟りー認識」を求める契機もあるにはあるし、実際、以前、調査したときにそうしたおじさんもいた。そうして、そのころ、ぼく自身、そうした生活破綻の不安を抱えていもしたし、認識への契機みたいなものも、事実あって、山谷へ行く!とか騒いだこともあったのだった。aに泣きながら止められたわけだが。まずはじめに不安があるわけだ。そしてそれは相当な金を稼がないことには、解決できなかった。なにせ数億もの負債だったわけだから。結局、そうした不安を消すとはいわないまでも、忘れさせてくれたのが、踊りだった。それゆえ、ぼくは蒙昧主義だ。しかし、また別の形をとって、不安は発生する。生の不安?死んでいるのか生きているのか、その間。所有すればそれを失う不安が発生するとはいうものの…。消費の快楽を軽蔑することは簡単であるが、一切の消費を否定することなど不可能だ。生産だけだと、交換が成立しない。つまり、関係が発生しない。隠遁か。…信念は、不安をある程度解消する。信仰になれば、ますます不安は解消する、のかもしれない。不安産業とかって言葉も聞いたことがある。結局、ぼくはいま、半分、隠遁しているわけだな。