グロリア

「グロリア、これが生か、グロリア」 朝吹真秀 浦邊雅祥 岡田隆明@planB
Masahide Asabuki, Masahide Urabe, Takaaki Okada "Gloria, Is this a life? Gloria "

岡田さんの公演。もともと、岡田さんとは、aが、首吊りパフォーマンスの古沢さんのところで、知り合った方である。その後、僕の公演にも、来て下さった。合田さんたちと終演後、談話。だんご、抽象、不明、の三者が、ついに出会えなかった。これは関係性が成立しなかったからまずいという意味ではなく、関係の不可能性を、ここまで、提示するというのは、今日、珍しい、という意味。たしかに、こうした、種類の、関係性は、他に思い当たらない。いくつか、面白い、局面があった。ひとりが脱いだ靴を、もうひとりが、履く。なにかが起こるようで、なにも起こらない。これは先日の田中泯さんとも同様であるかもしれないが、「中間に恋あり」の場合、終局部で、あるドラマトゥルギーというか、作品性?、つまり、それまでの時間を、一気に、囲い込む行為によって、時間は、閉じた。今回は、閉じる局面もあるが、それは決して、閉じないまま、そこになにもない、というか、なにか不明な時間と空間が、つまり、穴のようなものが、ぼかーっと、成立していく。「舞踏」の流れを汲む(僕もそうだが)流れにおいて、そうした「退屈さ」あるいは、「なにもない」ような場所、空虚とでもいえばいいのか、そうした時間を、延々、遅延させていく手法は、典型的な手法であるが、それは、考えてみれば、土方巽公の「踊らない」ことを、踊りとして提示したことに、その起源がある。さかのぼれば、もっと先達はいるのかもしれないが、通常は、そうしたメタレベルの導入は、1960年代の、アヴァンギャルドアヴァンギャルドであった時代に、各領域で行われていたということになっている。音楽の典型例でいえば、ジョン・ケージ。まあ、先祖はダダとかになるわけだろう…うーむこうした「モダニズム」、思い付くままにいえば、たとえば、ロレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ」にも、その原型を見ることができる。とまれ、こうした、メタ時間、メタ空間、ふつうに、構成しても、顕在しないだろう。「構成」、「計算」そうした「生産性」を、そのつど、廃棄していく作業。これは、コンセプトレベルでは、むしろメジャーなのかもしれない。しかし、それを、上演時間をあらかじめ決めないまま、時間を過ごして行くやり方は、こうした「舞踏」系の流れ以外に、思い出せない。海外でのbutohに、この手法が、どこまで認知されているか知らないが、例えば、山海塾は、初期の作品はともかく、こうした手法は導入していない(はず)。
 転がしの、床へ放射していく光りのなかで、三者が、前後に、重なる。これが二度ほど反復した。これは、始めて観たという印象だった(実際には他で観たことがあるのかもしれないが)。なるほど遠近法って、こういうことだよな、と妙に、納得した。
 サックスの音色も、久しぶりであった。フリージャズの王道も、最近は、あまり意識しなくなってしまっている。でも、ロックと同様、フリージャズは、ぼくの基礎的なフォーマットだ。そういえば、ローザズがマイルス・デイヴィスのビッチェズ・ブリューでやるな。見に行かないといけない。