理論、プロット、線について

明日のリハでブロックシーンを構築しなくちゃならない。整理、確認。
今日は朝方までaと議論。理論とはなにか。いわゆる理論とは、いうなれば観照理論。テオリーの語源が観照するというテオリアで、うんぬん。それに対し、実作の理論というものもある。実践理論とでもいえばいいか。方法論といえばいいのだろうが、それもまた理論的な作業である。この色は、あの色とどのように組み合わされるべきか、とか。音、形、シーンとシーンとの連関、シーケンス、時間軸の構成、空間構成、あるいはまた主題とその翻訳の仕方、運動の構成とか。でもそれらを構成していくうえで、最終的に決定するのは、感覚である。いわゆるセンス。理論なりコンセプトなりイメージ素材なりは、いずれも同様、素材である。そこにヒエラルキーはない、といいたいところだが、どうしてもある要素なり素材なりを配列するときに、選択しなくちゃはじまらないわけで、そこにプライオリティ=優先性(優劣といえばいいかな)が発生する。まあ、これも、「ヒエラルキー」という「ツリー」的な階層構造としてイメージしなければ、そんな考えることでもないのかもしれない。といって、感覚主義、直観主義に安住するのは、つまらない。それだと、他者=客の批判どころか、自己批判さえ不可能になりがちだからだ。でも、それもまた、経験が重なれば、そんなこと、どうでもよくなるのかもしれない。

プロットについて。直線的プロットと、それが破綻する「プロット」について。直線的プロットの場合、一見シーケンスに飛躍が生じても、それは必ず、直線のなかに回収される。それゆえ悪いといいたいわけではない。対し、マルローのいう「引裂線」や、ヘルダーリンブレヒトの「中断」、あるいはヴォリンガーの「ゴシック運動」=自動機械となった幾何学的線の暴走などが、介入してくる場合。それはゴダールの作品に顕著ではあるが、考えてみれば、パウンドやジョイスエイゼンシュタイン、ガッダなどの20世紀前半期のモダニズムに、大方共通する特性ではある。ゴッホピカソフランシス・ベーコンジャコメッティだって、ノーノなりブーレーズなりの現代音楽にだって当てはまる話である。
プロットの話だった。それで、たとえばゴダールにプロットはあるのか。あるにはあるが、それはもはや直線型ではない。直線的に見ようとすれば見ることもできるかもしれないが、それはもはやずたずたに引き裂かれたあとで、また初発の線に回帰した場合であり、それは直線的な連続とはいえず、断続的で、あるいは点線状の直線である。しかしぼくはたとえばゴダールに直線はないように思われる。むしろより微細なものとなったキュビスムのようにも、思われる。あるいはウィレム・デ・クーニングに近いのかもしれない。デ・クーニングはより「内臓的」であるだろうが。いや、もしかしたら、ゴダールもやはり「内臓的」なのかもしれない。
 そこへ、他者は、他者の言葉が介入してくる。そしてそれを受け入れること、歓待すること。

ゴダールはそのへん、まんまである。対し、パゾリーニは、アレゴリー化に強く導かれているので、ゴダールよりも閉じている、というか整理されている。

ゴダールの引き裂かれ方は、またMTV的な(AA氏の図式だが)ヴィデオクリップの「引き裂かれ方」とどう異なるのか。しかしそこには明らかに差異がある。
ある表象、あるイメージ、ある像が、引き裂かれるとき、それはとりあえず外から来るわけだが、ヴィデオクリップの場合、それは内在面より外へと向かっている。それは、これみよがしに見える。うまくいえない。この差異はなんであるのか。もっと考えなくてはならない。トイレで小林秀雄の「考えるヒント」をぱらぱら眺めたら、考えるということは計算(別の言い方だったが)ではなく、むしろ、ものを手放さないということだ、とあった。
把握、grasping(だったか)。


新宿の奇人堂で、昨日、ゴダール全集を発見。一夜悩んだあげく、購入。ゴダール全評論・全発言3 (リュミエール叢書) ゴダール全評論・全発言〈1〉1950‐1967 (リュミエール叢書)ゴダール全評論・全発言〈2〉1967‐1985 (リュミエール叢書)







出費が重なるとはいえ、「しょうがない、しょうがないんだ」と自分に言い聞かせながら(笑)。別の本屋で以前あって、ああどうしようと思ってたら、売り切れていて、ああとか思ってて、今度見つけたら、やはり買おうと思ってた。考えてみれば、大した値段ではないのだ。電話代とかに比べれば。そうして、ぼくはいまなお、携帯電話をもっていない(笑)。キャスリーンから、are you japanese?といわれたこともあった。とにかく、携帯をもってないというと、みんな一様に驚くし、ひとによっては、怒り出すひと、説教するひともいる(笑)。しかし、なんで説教されなくてはならないんだ。そういう目に会うと、意地でも携帯は持つものかと思う。が、やはり、必要なので、購入しなくてはならない。しかし、なぜ「しなくてはならない」のか。

で、ぱらぱら読み始めると、やっぱりむちゃくちゃ面白い。
II巻に収められた「弦楽四重奏曲を演奏するように映画を作る」1983。
プレミンジャーの「カルメン・ジョーンズ」1954
イザベル・アジャーニ「…光が不足していたから…ラッシュのなかの自分が醜く思え、私のマゾヒズムが限界に達したのです」って。おもしろい言い方。
(「勝手に逃げろ/人生」でこのイザベル・ユベールって、「主婦マリーがしたこと」、「ボヴァリー夫人」に出てたひとだっておもってたら、チミノの「天国の門」にも出てたようだ。「娼婦」を演ずること、か。けっこう、好きな女優である。)
ベートーヴェンについて。ルーベンス。とベートーヴェン
II-p.566.映画を作り始めたハンガリー移民。映像って、商売になるかもしれない…。
p570毛沢東の「内的原因」と「外的原因」。変化の根拠と変化の条件。
都市と都市のあいだにある映画。
p574オリジナル/コピー/映像:映像は複製である。だがひとはそれをオリジナルであると考えている。ひとつの映像は別のなにかの映像である。映像を映像として見ること。
手紙について。

弟子ー使徒について。II-610 パゾリーニ「奇跡の丘」
II-644パウロ:映像は復活を通して満ちたものとなるだろう。「コロサイ人の手紙」 神の像。imago dei。

パゾリーニ記号論批判pp25-