バタイユ/欲望、恐怖、残酷さについて

ジョルジュ・バタイユ「エロティシズムに関する逆説」1955
法外な理不尽について。欲望の苦悩。
エロティック文学における反復について。
「エロティシズムは、その頂点において、際限ない無秩序と、引っ掻けば引っ掻くほどいら立たせるむずかゆさを呼び求める」
「執拗な反復からサドはまぬがれなかった。醜悪の繰り返しを避けられなかった。だが繰り返しが到達した頂点は不可能性のそれであった」
「…サドがついに成果を挙げたとすれば、…言語の方向に反すること、一言で言えば、言葉が担う一切の働きを消滅させること…というひとつの要求を極限まで推し進めたことだろう」
「完璧に閉じた孤独という不可能なものの持つ魅力」
「戦慄の沈黙」
「わたしたちの歓喜の奇跡がわたしたちをそこへ導く分裂のなかで、文学こそはただひとつの声、私たちが身を置いている、引き裂かれずにはおれない、栄光ある不可能性に私たちが授ける、すでにつぶれた、ただひとつの声である。それはなにものも解決しない。ただ、堂々と、幸せに、最後まで分裂に身を委ねたい欲求に対して、私たちが授ける声である」


バタイユについては、これまで私はおもにその文芸批評を読んできた。「文学と悪」は実にすばらしいと思うが、本当に、驚愕した文章は、そのブランショ論である。別に、ものすごい論が立てられているわけではない。しかし、そのスティル、つまり文体の、透明さは、すごすぎると思ったものだった。読んだ時期とか状況にも左右されていたのかもしれないし、いままた読み直すと、別になにも思わないのかもしれない。かつて「無神学大全」3巻を、例のごとく勢いで購入し、さて読み始めると、どうにもニーチェの焼き直しにしか感じ取られず、その後、売却してしまうという愚行をしでかすわけだが、とまれ、いまでも私は、バタイユの思想に惹かれてというよりは、その明晰さが具体化した文体に惹かれる。
バタイユとの関係についてはこれまた例のごとく亡父との関係が介在してくる。つまり家の本棚にバタイユらの本があったせいで、なんか知った気になっていたのだ。澁澤龍彦のフォロワーであった父に対し、私もそれなりにエディプスコンプレクスがあったのかもしれん。
そのせいでか、これまで澁澤さん関連は、避けてきていた。澁澤さんの著作はまだ一冊も読んでいない。
 想起したいことあるいは確認したいことは、バタイユとの関係であった。早い話、バタイユなりエロティシズムなりの言説に関して私は長い間、偏見を持っていた。ただ、これはフーコードゥルーズデリダ以降の世代にある程度共通していると思うが。さて、それで、ナンシーやピエール・マシュレ(「文学生産の哲学」)らのバタイユ論で、やはりバタイユには注意すべきだと教示されながらも、そのエロティシズム論を読むには至らなかった。
やっと、いま、たどり着いたというわけか。「エロスの涙」。
 …自分の欲望のなかで苦悩しているのに、その欲望の問題に、直面していなかった、ともいえる。
 恍惚と恐怖との関係についても(中国の処刑論など)、しっかりと考えたい問題である。

yさんにいろいろ教えてもらって、考えざるをえなくなったというのもある。
http://www.fur-free.com/
での、毛皮剥ぎの映像をどう考えればよいのか。
たしかに残酷である。だが毛皮はいまでも商品として消費されている。欲望はこうして残酷なのだと、やはり毛皮を着るひとは、この種の映像を見るべきであると思われる。しかし、と考える。ここで倫理主義に立つならば、ペット産業も、あるいは食肉も、否定せざるをえなくなる。ペット産業についても、同様の話がある。売れ残った犬や猫は、ガス室で、殺害されるという。aはその映像をテレビで見た。ペット=愛玩動物についても、まだどう考えればいいのか分からない。
 むかし、「ザ・ショック」というシリーズもののヴィデオがあり(いまでもあるのかもしれない)、この種の衝撃映像を集めたものがあった。そのなかで鶏肉工場の映像があったのを思い出す。…
 毛皮購入は衒示的消費である。ペット購入も同様ともいえる(むろんそこに差異はあるだろう)。結局、大量生産=消費自体が問題なのであり…
 また、楳図かずおの「14才」では、ササミ養殖工場から生まれたチキン・ジョージの思想と行動が描かれている。この本を読んだaは、以降、鶏肉を一切食べることができなくなった。
 それで。私は、やはり肉は好きである。だから、ヴェジタリアンには、当分、ならない。
鶏肉工場の映像を中学生の時、見てから、当時たしかに少し、抵抗感が生まれた気がするが、覚えていない。親子丼は大好物のひとつである。
 私がいいたいのは、単純な倫理主義も、消費主義(とりあえず。欲望肯定主義?)も、ともに、残酷さを見ようとしない、非人間主義であるということだ。
 私がいまいっているのは、こと、食肉行動に関してであって、毛皮産業を擁護するつもりではない(アタリマエだが)。
 食肉を禁ずるヴェジタリアニズムに私は立てない。
これはたしか臨済宗の僧侶とゲーリー・スナイダーとの対話でも触れられていたことだが、
仏教では、生命の価値に差を見ない。つまり、植物もまた生命である。(魚介類なんかとくに、「動物」であると思うのだが、どうやら「動物」ではないらしい)動物を食うことが悪であるなら、同様、植物を食うことだって悪である、と。これには私もとりあえず同意する。もっといえば、生命に価値は関与しないとも思うのだ。生命に価値があるとすれば、すべての有機体には、価値がある。いずれにせよ生命の種差によって、価値のヒエラルキーは立てられないということだ。
 この点に関して、私はもう10年以上、考えが変わらない。というか、この種の議論、してくれるひとがいない(笑)。人類史を超える規模であるから(笑)。
 戻ると、残酷さに関しては直視するべきであるということ、そのことなしに、ヒューマニズム人間主義(r君)は成立しないということ。
 
 それで、人間の胎児スープについて。http://www2.tcnweb.ne.jp/~perfect/china.htm
 これもまた、たしかに、信じられない話ではある。ところで、胎盤が体によく、現在、日本でもある産婦人科では入手できるらしいとは、つい先日、mさんと話していたことだ。栄養摂取ということであれば、胎盤と胎児の間に、飛躍はないのだろう。そこに飛躍を見るのは、これまた「近代主義」である。…
胎児を食すということは、はたして悪か?中絶堕胎が悪というのであれば、悪である。むろん、このへん、慎重に考えないといけない。
 まずは、人類学的に、他文化を観察しなくてはならない。そして、反省的に、検討して、それから、価値評定に、向かう、という段取りを踏まねばならない。
 そもそもこのスープにされる胎児の由来。とりあえず推測しかないので、推測する。少なくとも、この胎児は長男・長女ではないだろう。つまり家にもうこれ以上必要ないという、なんといえばいいのか、「余剰」としての出産?の結果、生まれたのではないか。長男の胎児である場合、またそれはそれでくらくらする。つまり、そうなるとどの胎児でもいいとなる。長子相続社会において、次男以降は、余剰であるとされる。…
 私がいいたいのは、この料理される胎児とは、つまり堕胎された胎児ではないかということ。
 中絶堕胎はひとつの殺人であるという言い方がなされてきたし、いまでもなされている。
堕胎が禁止されるとする。するとレイプされて妊娠した場合、それでも産むしかなくなる。
まあこの辺は推測思考ゲームに近いのだが、しかし事実、優生保護法なんかあったりするわけだ。いずれにせよ中絶は非合法であるべきではないと思う(もっとここも研究)。
 問題は中絶の是非ではない。ないのだが、中絶と胎児スープとを、対照しながら考える必要があると思われる。
 堕胎された胎児の処理の仕方。中絶手術を受ける場合、胎児へと「進化」?する前に、処理=殺害される。そしてその遺体は、…どうなっているのだろうか?どのように処理されているのか。(ここも調査)
 胎児の調理の場合、遺体の処理として、栄養摂取を目的に、食される。

 考えてみれば、カニバリズムについても、まだなにも知らない。
たとえば、トマス・アクィナスの遺骸は、スープとして、信者、弟子たちに食された。
 聖人に少しでも近づくなど、いろいろあるだろうが、そこにおいては、カニバリズムはタブー視されていないということ。
同様、中国においても、すくなくともこの広東のある地域においては、タブー視されていない。一応、法を意識しているようだが、胎児を「肉つき肋骨」と言い換えて、営業できるのだから、そしてそれを食すのだから。
 十分に「近代化」されていれば、このようなことはないだろう、ともいえる。
 近代化の推進…つまり、近代文明(その内実はヨーロッパーアメリカの「白人西洋文明」)が、他の文明を、覆っていく。
 しかし、その前に、やはり問われるべきは、それが悪であると断罪する前に、いかに悪なのか、なにをもって悪とするのか、の探求=思考である。
 価値判定も当然必要だし、私だって、かつては、がんがん価値判定して、…それが政治だったわけだった。
 私がリアルポリティックスに乗ることができなくなった最大の理由が、ひとつひとつ、問題をほぐしてくと、分からないことだらけで、にわかに価値を判定できなくなったからだ。
 あるいは、その遅延させて、ぶつぶつ考えていくということに、価値を見出した、ともいえる。
 
 …毛皮も、胎児も、「消費」にはちがいない。後者は、「消費社会」の領域の問題というよりは、人類学的領域の問題であると思われる。
 
 また別の例でいうと、昨年、イラク人質殺人事件が起こった際、私はその斬首の映像を見た。大文脈としてのアメリカ文明VSイスラム文明という話ではなく、私が思ったことは、あの映像ははたして隠されるべきなのかということ。
 現実にあの事件が起こった。あの映像はむろん特撮ではなく、事実の映像である。
映像の倫理、報道の倫理について、方方で議論もされたのだろうし、いまもされているのだろう。
 …残酷な映像…
 あるいはまた、拷問の歴史なり処刑の歴史なりのあの手の本。
 なにが必要なのかといえば、あのような映像を、どのように受容すればいいか、あの映像について各人が考えていくしかないのだということ。
 それはたとえば、ジャック・リヴェットセルジュ・ダネーが論じた「カポ」のトラヴェリングの問題と対照させる必要もある。
 「芸術」の名の下に表象する行為と、いわゆる「ドキュメンタリー・記録」という「事実・現実」の記述行為との違い。
 いま、思うのは、「ドキュメンタリー・記録」といっても、それもまた表象行為であるということである。「芸術」が免罪符にならないように、「記録」もあるいは「研究」も、免罪符とはならない。ただひとつの(と私は現在考える)道は、ジャン=リュック・ゴダール「here & there」のように、事実と虚構、…問題はなんでもいいのだが…ある問題対象を前に、これをどうすればよいかと思考模索する過程を、おりまぜて提示する仕方である。
 だから、斬首という衝撃的な「事実」を記録した映像も、ただ投げ出すだけでは、やはりだめなのだ。それは、段階というものが必要であるからだ。ブレヒトの教育演劇のヴィジョンの場合、問題対象を直接的に提示するのではなく、暗示的に、提示する。それは、「答え」を提示することは、観客から思考を奪う結果になるからだ。そこからブレヒトはイリュージョンを否定した。ここはかつて岩淵先生にも聴いたことでもあるが、そのイリュージョンの否定と、「オルガノン小思考原理」における「楽しみ」とはどう分けることができるのかという難しい問題もある。岩淵先生は、笑っておられた。自分で考えなさいということだ(笑)。
 例のごとく、脱線しまくるわけだが、戻る。そうなると、ではあの映像は流出すべきではないとなる。それを前に思考するなりのオブラートでくるまない限り、スキャンダルに回収されるから。
 だが、一方で、あの映像は、それでも、おおくのひとが、見る「べき」であるとも思う。
あの映像を見ないと、起こったことがどのようなことか、わからないからだ。
 あの映像があって始めて、感覚が揺さぶられると同時に、現在の事態が把握される。隠蔽されると、それは結局、「なかったこと」として無化されてしまう。
 その無化こそが、やばいのだ。その意味では、あの映像が問題なのではない。戦争の歴史、社会の歴史、犯罪の歴史、残酷さの歴史、つまり人間の歴史のなかで、とくに特筆すべき映像ー問題ではない。(とはいえ、バタイユが引用する「中国の処刑」ほどには衝撃的ではあるが。)
 
 …アルトーの残酷演劇と、ブレヒトの教育演劇は、上記の問題提起(というか随想)によって、(私のなかで)より密接に繋がった。HM/W会議でのプレゼンテーション(12月に上演の作品についての4月(だったか)のプレゼン)において、ハイナー・ミュラーによって、アルトーブレヒトとを接続することができるはずだと「宣言」した論点が、二年を経て、本格的に見えだした。