クールベさん、こんにちは

で、クールベ美術館展に行く。駅からすぐ。デスマスク、手の型取り、パイプもあった。クールベの手はかなり大きい。パイプ、シノアズリ風なのだが、どう見ても、中国文字ではないw 中国の文字の変遷については知らないけれど、多分、違う。つまりフェイクなのだが、シノアズリ(中国趣味)ってやっぱりチープだったんだなとw。オリエンタリズム、か。サイードの本もまだ読んでない。
 さて、がらがらだったのでw、ゆっくり見ることができた。クールベの感性、大好きというか、他人とは思えないほど。私も田舎小地主出身だから、なんか分かるのだ。なんか。「民衆」でも「農民」でもいいが、それらは「理念型」である前に、現前していたわけだし。それになにより、私が「自然」を好んできたこと。もちろん、私の生家はクールベ邸ほどお屋敷ではないし、狩猟もしていないし、またクールベ邸ほど自然にまんま取り囲まれているわけでもない。写真でみる限り、クールベの生家はほんとうに森のなかのお屋敷である。
とはいえ私の幼年期の思い出のうち、山の記憶、海の記憶、川の記憶には特別な執着がある。といっても3才までは吉祥寺で育っているから、原風景ではない。実際、上京したときも、「都市」への憧れなどはまったくなかった。ただ、たしかに情報は求めていた。いまでも私が東京にいることを選んでいるのも、情報、あるいは都市の「出会い」w、あるいはそのパサージュ的性質に惹かれつづけるからだ。その点においては私はバルザックに近いのかもしれない。とはいえクールベパリ・コミューンの際にヴァンドーム円柱破壊の責任を問われ逮捕抑留され、出所後故郷オルナンに帰るまではパリにいたわけだから、まあどうなんでしょう。
とまれ、私が言いたいのは、「自然」であり「レアリスム」(クールベは蔑称としての「レアリスム」を引き受けた)であり、より大きくいえば、「自然主義」の問題なのだ。