雨、灰、白

はて今日は雨。ひさびさにまったり。私は光フェチだが、なんといってもこの柔らかい、灰色と白とが織り混ざり、「くもり」であるのに、透明な、この光が、大好きである。
 静かな時間。夜になれば、闇と戦うことで人間が作り出して来た火のテクノロジーの現代版である電気(っていつのはなしだ)の光になってしまう。電気は電気でいいし、好きでもあるが、まあ電気の話しではなくて、この光についてだ。
 むかし谷崎の陰影礼讃を読んだことがあった。そうとう、しびれたものだった。内容は忘れた。ただ、昼間の障子より差し込む光のあり方を、その存在を、教えてもらった。それが光である、と名付けられたかのような、大袈裟であるがそんな驚きを感じたものだった。
 それまでも、この具合の光がいいと感じていたから、そのように教えられて、納得がいったわけだった。
朝、ふだんは8:15分まで寝ているくせに、ふっと5時とかの、まだだれも起きていない時間に目がさめることがあった。なぜそこへ行こうとしたかは知れない。一階より二階へと続く階段のある居間で、その階段の裏に設置してあるソファに横たわり、白い壁に反射する、早朝の青い光を楽しんだものだった。子供部屋のある二階には、洗濯物干場があって、ガラス戸からすでに、外の光があからさまに見える。一階の居間は窓が少なくて、光は真っ昼間でも直接は差し込まない。だから二階より一階へと下りて行く感覚は、ただでさえ物理的運動としては下降運動なのに、その間には、光の階層ができているものだから、またその光の階層には、色の区分すらあるものだから、水面下へと沈んで行くように感覚されたものだった。
 光は弱ければ弱いほど、その襞が感覚できる。あたりの気体が感じられる。
雨が降れば、その雨が、あるいは大気中の水分が、音を遮るのだろう、静かである。
 静かに、漂いながら差し込んでくる光。それは朝、山にかかる靄と同じものだ。一見動いているようには見えず、ただ、それを見ていれば、ゆったりと動いていることが分かるような、運動の質。
 青い光。灰色の光。白い光。