概念の機能、運動

いわゆる「記号論」とか「表象論」とか「概念」とか「言葉」のレベルではなくて…という言い方がされることがある。橋川本でも、小林秀雄マルクス主義文学を批判したときも、「概念による欺瞞」「概念による虚栄」という言い方をしている。昭和七年の「現代文学の不安」という文章。
 
 「概念」が機能するという事態がある。それに対して、上記のような言い方は、つまりは、「概念」が機能していない、という事態をさしている。
 
 問題は、「概念」ではなくて、「実体」であり、あるいは、「自然」であり、あるいは「生」である、とかいったとしても、それらの「非概念」もまた、概念であることは変わらない…違うか。
 小林秀雄の魅力は、ある思考の流れである。それは概念の舞踊であるといっていいかもしれない。むろん、ニーチェだって思考の舞踊家である。…この言い方も、再認しているだけだ…

 
 
吐き気がしてくる。完全に空回っている。

気合入れなおして、せっかく、概念論を、再考しようとしたというのに、また空回りをしてしまった。

 概念論ということで考えないでみよう。

 「民衆」だった。
しかしそうなのか、新しい民衆表象をつくりたいのか?

 
歴史、実体、実践…?
記号と歴史…

時間切れ。中断。