インドネシア・テロ

2002年10月 バリ、クタ地区ディスコ爆破テロ 死傷者202人
事件に関与したとされるジェマ・イスラミアの三人は死刑判決。

2003年8月 ジャカルタアメリカ系ホテル爆破テロ
2004年9月 ジャカルタ、オーストラリア大使館爆破テロ
2005年5月 スラウェシ島テロ、死傷者20人
2005年10月1日 バリ、同時テロ


・1日には、政府が石油製品価格の平均二倍以上の大幅値上げを発表、即日実施した。各地でデモ。
ジョクジャでも、ジドーさんは、バイクで迎えに来るまえに、デモに参加していた。

10月5日頃よりラマダン(イスラム断食月)のため、宗教的に高揚したためともいわれる。



・東南アジアのイスラム原理主義集団ジェマ・イスラミア(JI)の関与とのこと。

ジェマ・イスラミアは、アルカイダと繋がっているという(どなかかが書いていたがこの関係も確証は微妙なようだ)。wさんより聞いたところ、一度は、政府より解散を求められたが、当然のことながら、解散しても、潜伏する結果になったという。
 また、アンボンや、カリマンタン島では、キリスト教が7割を占める島では、イスラム教徒を、イスラム教徒が七割を占める島では、イスラム教徒を、それぞれ虐殺したという。


インドネシアに一週間滞在して一番強く思ったことは、階級闘争のリアリティであった。
物価体系。貧しさ。そして、観光産業、ツーリストとのギャップ…
 ツーリズム。
 そして、バリは、観光地としてランキング世界一という「栄光」を手にしている。

一部の有産階級以外の、圧倒的多数の「労働者」。

グローバリゼーション下での新たな「民衆」概念のヴァリエーションである、「マルチチュード」という概念は、その概念の指し示す対象=ひとびとは、やはり先進国固有といっていいのではないか。まだネグリ・ハートの「帝国」を読んではいないが。
 
 当然であるが、対象なしの概念は存在しない。そうして、ことが社会政治的な事象に関する概念(「民衆」だとか「プロレタリアート」だとか「ブルジョワジー」とか…つまりは「階級」概念)である場合、その対象の実体(実在)との合致が問われる。概念の妥当性、正当性をめぐる問いである。

 概念の構成要素で、かなり大きな要素として、イメージ・表象のレベルがある。幸か不幸か高度資本主義社会への変容を遂げることができた現在の日本では、ここ数年はよく議論されるようになってきたとはいえ、いまだ「階級」概念の「歴史的失効」が云々される。
 いわく、「プロレタリアート」など、存在しない。「階級」など、存在しない。

こうした「階級」の存在(実在、reality、現実性)を否定する言葉の、行為遂行的な意味(つまり、この言葉の「身振り」の意味するもの)のひとつは、「わたしたちは先進国だ」という、国家の自己あるいは国体としての自意識であり、その自己愛的固着である。

 フリーター・ニート論などの階級論的視点からいまでも、いやいま、ますます、その認識をめぐって議論されている。

 インドネシアでのいくばくかの断片的な観察とインドネシアのひとびととの会話から、「プロレタリアート」は、「発展途上国」に、輸出されていることが、とても強く、実感された。

 かつてマルグリット・デュラスは、インタビュアーの「いまの世界に必要なことはなんでしょうか」という問いに対して、一言、「階級闘争」と答えた。
 
 「そんな階級だなんて、ありもしないフィクションをいってさ、働けばいいことでしょ?」という資本主義の倫理=エートスを押し付けてくる圧倒的な多数派の言説に、押しつぶされ、ほとんど瀕死状態であった私に、デュラスのその言葉は、「わたしはひとりではない」という感覚をもたらしてくれ、感動したものだった。7年くらい前のことだ。

 いまやポストモダンのお遊びも収束し、ふたたび「現実」に向き合おうとするジジェクバディウネグリらもいる。(ジジェクの、想像的な「現実界」、象徴的な「現実界」、現実的な「現実界」という、ラカンのシェーマの変奏が、「リアル」に関わる理由(必然性)は、このように考えると、納得がいく。また、アガンベンバディウが、パゾリーニを引き合いに出すのも、やはりパゾリーニが「リアル」について思考したからにほかあるまい。)
 こうした政治ネタとまったく関係ないところで動いているかのように見える日本の「コンテンポラリーダンス」もまた、やはり「リアル」を巡って運動している。あるいは“J”演劇といってもよいこの「界」をひとつの結節点(瘤)として、他方に、政治哲学における「リアル」の問い直しが別の瘤としてある。いま現在の私の関係する状況を鑑みるに、このふたつの瘤の間に、また別の瘤を作ることはできないものだろうかと、模索中、といったところだ。

 ジジェクは、グローバリゼーションのオルタナティブが構想できない以上、その内側より、内破しかないと、いっていた。

 たしかに今日、資本主義を否定し、別の道(外部)を選択するとなれば、原理主義くらいしかないのであろう。

 しかし原理主義を選択できない、ということはたとえば人道主義によるのだとしても、ハイチやあるいはまた、インドネシアでもいえるだろうか。
 「資本主義以外にはありえないのだから…」と、いえるだろうか。


発展段階論を説いたところで、階級格差は、絶対に解消されないのだから(なぜなら、階級問題を解消した社会ーすくなくとも一個の社会が単独では存在せず、他の社会との経済的社会的相互作用によって存立するというごく一般的な視点からすればー、そんな社会は、歴史上、長期的には存在したことがないからである。)、ひとびとを説得することはできない。
 もちろん、すべてのひとが納得する社会などを構想すること自体が、夢見であり、観念論的なのかもしれない。


 しかしあるユートピア的な状態を、イデアとして持つことということは、観念論的であるというよりか、神学的、といっていいだろう。つまりことは、神的なものに関わっている。
神的なもの、神という観念が発生するには、原理論的には、この世界のカオティックな、アナーキーな、矛盾が、前提としてある。

 階級問題とは、貧困問題であり、つまり賀川豊彦らのいう「社会悪」である。そうした「
悪」と戦う方法論のずれでもある。「善」をどこにおくか。



マホメットの「聖戦」…宗教国家「イスラーム」…マホメットについての本を読むと、イスラムはその形成期においてすでに「聖戦」=戦争を、その手段としていた…




 ジドーさんはマルクスを愛読していた。
 そうして運動はつねにその対象としての状況に対応するものである。
 インドネシアでは、階級闘争が求められていた。
 富は一部の人間が占有するよりか、よりひろく、公正に分配されるほうがましである。


 
 バリのテロを、たんにイスラム原理主義の主張であるとして終わらせることほど、無理解な見解もないだろう。テロリズムの前提にあるのは、状況である。そしてその状況とは、ことインドネシアにおいては、バリというツーリズム・経済発展に成功した勝ち組への示威ということ、そうしてなによりも、インドネシア社会(とはいっても、ことはもはやインドネシア国家単独の問題ではない。インドネシアには日本を含む多国籍企業の工場が多数存在している。)における経済ー階級ー貧困問題である。


 そしてまた、とりわけアメリ原理主義イスラム原理主義の賭金は、石油である。
石油の争奪戦。資源の争奪戦。


例のごとく、まとまらない。

 

バリテロについてのニュースは、http://d.hatena.ne.jp/isharq/20051002でまとめて読める。

インドネシアについての基本的なデータhttp://www.mofa.go.jp/mofaj/area/indonesia/