追記

バリという「勝ち組」への攻撃、との線を書いたが、それをもって私がいいたいのは、このテロは、国際的なメッセージとしての側面だけではなく、インドネシア国内的なメッセージでもあるということ。
 インドネシアで会話したひとのなかには、多く、「ナショナリスト」がいた。そうした傾向としてのインドネシア民族主義の仮想敵は、かつての日本民族主義においてもそうであったように、「列強」すなわち「西欧」である。
 植民地主義コロニアリズムがなにをやってきたか。「モダン」がなんであったか。
近代の視点からすれば、日本は、近代化に「成功」した。太平洋戦争で敗戦してからも、「鬼畜米英」という、イデオロギーに由来する感情は根強く残っていた。高度経済成長によって、そうした感情はうすまる。親米派と反米派との対立が、内戦という形をとりはしなかった。いや、学生運動は、疑似イベント的な要素を多分に含んでいたとはいえ、あれは「内戦」であったといえるのかもしれない。「内戦」は、「内ゲバ」へと細分化し、そうして連合赤軍事件において、自滅する。ベクトルは、自己否定であり、あるいは「内向化」でもあった。この点についてもまた多くの論がある。

 バンバンさんという個人を事例にするわけではないが、インドネシアイスラムは、なんというかアラブイスラム?サウジイスラムとは異なる。敬虔ではない。というか、インドネシア人にとってイスラムは、仏教、ヒンドゥー教ともに、「外来」のものである。日本に、宗教がないといわれるのは、教義宗教がないということだ。むろん、仏教、密教が国教であった時代(平安時代)もあるし、あるいは儒教が国教であった時代(江戸時代)もある。日本の宗教の、宗教社会学的分析はこれまた大変であるが、とりあえず、明治政府が、それこそ近代的な意味での「国教=国民宗教=国家宗教」として、神道を持ち出したということがある。靖国問題が日本人にとってさけてとおれぬ問題であるのは、まさにこうした宗教感情があるからだ。…もっとうまく説明できないものか。
 「日本には宗教がない」というのは、むろん虚偽である。それは教義宗教という形式ではない、アニミズム的な神秘主義という側面が強い、神道、およびそれの国家宗教化である、天皇制こそが、日本の宗教である。
 他方で、やはり仏教は仏教で生きてもいる。しかし仏教の戒律にどこまで敬虔かといえば、正月や盆といった年間行事くらいしか、多数の人間は行かないわけだ。そうしたことと、インドネシアにおいての宗教=イスラムも、似ているのである。
 それではなぜアラブイスラムほど原理主義ではないはずのインドネシアイスラムテロリズムに走るのか。インドネシアにはアラブイスラムもいる。多いかどうかは知らない。一連のインドネシアテロの首謀者はマレーシア人だといわれているが、指令を発している幹部には、おそらくアラブムスリムが多数いるはずである。(アラブコミュニティについて、観察はできなかったが、聞くところによる。)
 しかしこうしたインドネシアイスラムの状況(ごくごく暫定的な観察によるものだが)の個別的な事情がともあれ、やはり問題は、テロに走る感情の起源である。それが、まさに社会の姿であり、経済状況であり、貧困問題であるのだ。
 そうして、「発展途上国」がなぜ貧しいのか。インドネシアははじめより貧しかったのか。パプアニューギニアは…、アフリカ人ははじめから奴隷だったのか…
 
 「経済人類学への招待」で、山内昶さんは、「未開社会」が「貧しい」というイメージがあるが、それが、生活時間の体系、労働時間と余暇時間との振り分けの具合、またカロリー摂取量などの数値的な視点からすると、まったく虚偽であることを書いている。それどころか、「未開社会」の方が、「先進国社会」よりも、「豊か」であるということもいえるほどである。

 こうしたことすべて、資本主義とは何であるのかということに尽きる。
第三世界」「発展途上国」は、資本主義が勃興したがゆえに、その「敗者」として貧困化し、矛盾していった。
それらの資本主義への移行に「失敗」した国の矛盾を、「敗者」に「自己責任」などとかいって押し付けて、問題を無化するのみならず、アメリ原理主義は、石油資源まで独占しようとしている。

 ここまでは、国際政治経済レベルでの話である。
さらに視点を、「文明」という観念から考えてみることもできる。
つまり、資本主義文明、ということである。アメリカ主導の、パックス・アメリカーナ型の資本主義文明。
ハンチントンらがなにをいってるか知らないが、こうした文明論的な視点から、これまでの人類の歴史は、文明同士の争いによって、動いてきたし、発展してきた。それゆえ、勝者である資本主義文明は、敵を滅ぼし、ますます発展するのである、という見方も生まれる。スペンサー風(とても古いのだが、フォークセオリー的にはいつまでも有効なようだ)社会ダーウィニズムだ。弱肉強食、適者生存。cf.ダーウィン自然選択説

 こうした「先進国的達観/先進国的パースペクティヴ」に居直るのか。そうでないのか。

インドネシアでの「フレンド」という語感が、強く残っている。
関東大震災のときに、朝鮮人をかくまった日本人には、そうしたフレンドシップがあった(実際に友人でもあっただろうし、あるいはそうではなかったのかもしれない)。ナチから逃れたユダヤ人を匿ったフランス人にもそれがあった。