YOU TAUGHT ME LANGUAGE AND PROFIT ON'T IS I KNOW HOW TO CURSE
そもそもエメ・セゼールを読むきっかけになった起源には、ハイナー・ミュラーがある。ミュラーのどこかの注で、シィクスピアの「テンペスト(嵐)」を、反植民地主義的視点から改作を行ったものがあるということを、知ったのだった。だが、そのデータは、その後、更新されなかったままだった。
今福龍太さんの「クレオール主義」(ちくま学芸文庫)とは、パゾリーニに導かれて、アフリカ、そして三角貿易=奴隷貿易の問題に向かっていたなかで、出会った。そのなかの「キャリバンからカリブ海へー逃亡奴隷論」に、「テンペスト」の改作を行ったのが、エメ・セゼールであることが書かれていた。
シェイクスピア「テンペスト」では、以下のような台詞まわしがある。 第一幕ニ場(岩波文庫版より)。
プロスペローの娘ミランダ
「忌まわしい下郎、善いことはちっとも心に留まらず、悪いことにはすぐ染まる。あたしはお前を不憫に思い、ものいうことを覚えさせたり、いつも何かしら教えてやったでしょう。おまえはまだ自分で言う事の意味がわからず、全く野生の動物のようにただぎゃあぎゃあ言ってたころ、あたしはおまえの思うことを人に知らせる言葉を教えたでしょう。でもお前の悪い根性には、善良なひとたちが一緒に暮らせぬところがあったのよ。だからおまえがこの岩に押し込められたのは当たり前のことで、お前の罪は実は牢屋では軽すぎたのよ。」
キャリバン
「ことばを教わって得したことは、悪口を覚えたことだよ。ことばなんか教えた罰で、真っ赤な病気でうせ果てろ。」
この「キャリバンCaliban」という名前は、「カリブCalibe」「カンニバルCannibal」のアナグラムである。小学生のころ映画「食人族」というのがあった。残念ながら未見であるが、当時のポスターと噂話は覚えている。あとでまたまとめたいが、モンテーニュの「食人族について」は1580年。500年間、そしていまなお続行するこの表象。
セゼールは1968年、「嵐ーシェイクスピア「テンペスト」の黒人劇への翻案」を発表する。
(Aime Cesaire,Une tempete.Adaptation de "La tempete" de Shakespeare pour un theatre negre.)
そうして、さきほどミュラーの当該箇所を、見つけた。「画の描写」の注18である(ハイナー・ミュラー「ハムレットマシーン」未来社pp209-210)。そこには、1970年に、ミュラーがこの戯曲をドイツ語へと翻訳出版したことが書かれてあった。フランスで発表されて二年しか経っていない。ミュラーのこの俊敏さ。
また、ミュラーは「シェイクスピア 差異」の末尾に、「YOU TAUGHT ME LANGUAGE AND PROFIT ON'T IS I KNOW HOW TO CURSE」と、キャリバンの言葉を記している。
このCURSEは、呪い、呪詛とも翻訳できる。つい、一昨日か、当日パンフに向けての英訳を作るさいに、そのCURSE呪詛を、使ったばっかりだった。
HM/Wに参加したとき、当初はこの「画の描写」で上演するつもりだった。いま思い出すのは、この注にひっかかっていたことだった。「エメ・チェザーレ」とそこには表記されてあるが、その「黒人」による改作を読まない限り、すくなくとも、テキストのなかで使用される「嵐」というイマージュについて扱ってはならないような気がしたのだった。こう書くと、いかにも「正義」に従っているようであるが、そのように直観したのだった。
そうして、いまセゼールと、ファノン「地に呪われたる者」(みすず書房)のサルトル序文を読み終えたのだったが、いまはそれが正義であることを確信している。むろん、「別の」正義であり、別の歴史である。
一生懸命「白人」になろうとするイエロー・シニシズムとは、断固として手を切らなくてはならない。
今日の日本のシニシズムがそもそもアイロニーであるのか、やはり疑わしい。それは、すでにアイロニー的超越ではなしに、たんに「ベタ」なプチナショナリズムだ。
そうして、プチナショナリストは、以下のようにセゼールに向かってほざいた白人のこどもである。
マルセル・ポワンブフ :フランスがなければ、あなたはどうなっていたと思いますか。
セゼール :誰にも自由を奪われることのなかった人間だったでしょう。
ポール・テータン :ばかばかしい。
ポール・カロン :あなたは祖国を侮辱している。
(右派席から) :なんという恩知らずだ!
モーリス・ベイルー :読み書きを教えてもらってありがたいと思わないのか。
セゼール :ベイルー議員、私に読み書きを教えたのはあなたではありません。私が読み書きを学ぶことができたのは、いつの日か自分たちのために弁じることができるようにと、息子たちの教育のために血と汗を注いだ幾千幾万のマルティニャック人の犠牲のおかげなのです。
1950年の「アンリ・マルタン事件」に関する国民議会議事録より。
砂野幸稔「エメ・セゼール小論」(セゼール「帰郷ノート/植民地主義論」平凡社ライブラリーpp286-287)より。
セゼールのこうした言説に、ジジェクのいう「犠牲化のイデオロギー」論(『ジジェク自身によるジジェク』河出書房新社pp197-204)とをからめたいが、とりあえず、ここまで。