ルディネスコのラカン/記述と暴露

 ルディネスコの「ラカン」。コイレ/コジェーブのヘーゲルから、バタイユファミリー。シルヴィア・バタイユは、ジャン・ルノワール「ピクニック」に出演。ジョルジュ・バタイユも神学生として出演しているようだp150。ニーチェ左派。「コントルアタック」の会合はラカンの部屋で開かれていたp157。

「家族」の理論。モースとユクスキュル。主体と環境との関係は、「契約」ではなく、「依存関係」として見なされる。すなわち環境の内面化。
 個人は社会関係に帰属しなければ、「人間」であることはできない。
 アリストテレスの、男性/女性/奴隷の三分割「人間」。
 モーラスを通じてのオーギュスト・コント。…
 …
「主体は自分を死に委ねるなかで、母親のイマーゴを再発見しようとする」p166
ベルクソンの義務のモラル(閉鎖:囲い込み)/渇望のモラル(開示:模範的人物を通じた一般化)。
 家族の起源:父と息子の自我理想の選択的相続。×遺伝
 
 フランス・ナショナリズムを廃棄するラカンの人類学的普遍主義。p170
 
イギリス贔屓p179。

サルトルとの「自由」を巡る争いpp197-199→フロイト「集団心理学と自我の分析。群衆心理学p194。

メラニー・クライン。「精神分析における攻撃性」(1948)
: パラノイア・ポジショニング。p216
自我=すべての抵抗の想像上の場所=パラノイアの構造として組織された誤認の審級。
「わたし」=主体の現実の位置の表示。
→分析技術は、自我の誤認にたいして指向されたパラノイアを誘導し、それによって消極的な転移を作用させる。
=自我をエスの適応の場所としないで、転移にもっとも重要な位置を与える。 

 しかしかなりヤバイ話盛りだくさんで、まったく劇薬のような人である。通常の「良心」を持ったひとにはとうてい耐えられないようなエピソードがふんだんに記述されている。この本を読んでラカンを嫌うひとも多いことだろう。明らかに偶像破壊を主旨としている。といって、別にルディネスコ主観的に歪曲しているわけではない。ただ、「事実」を記述している。「客観的な記述」と「暴露」とが時に判別できないほどである。
 バリバリのブルジョワ王道一直線。ブルジョワの「一直線」とは、むろん、「ひねくれ」「傲慢」「欲望」のことである。