黒の踊り

田中泯 独舞 恋愛舞踏派公演「透体脱落」
Min Tanaka Solo Dance“where we fall into transparency”
世田谷パブリックシアター

低い幕から覗ける竿。
幕がめくられ、足。
折り紙の兜。
砂、土が盛られている。

今回の上演で実にすばらしかったのは照明のオペレーションであるが(ありえないと思われるほどの技術。)、冒頭の影が分裂するシーンは、裏表、おそらくは4つの光源によるのだろう。
髪は坊主頭のようにも見えたが、あとで見たら金髪だった。


「幼年期」の空間から、鉄棒へ。
人物がぶら下がると、左の転がしの羽が開いていき、観客席の半分ほどまでも照らす。
アオアオいいながら、落ちていく。斜めから指す扇形の光のなかで、立ち尽くす仕方は滑稽でもあり…、この「立ち尽くす」という時間の滞留に、私がなぜそもそも「舞踏」に魅かれたかその理由が見えるような気がした。この感情の状態はなんなのだろうか。ひとつのモメントとなる言葉としては、「孤独」がある。ソリチュードでもまたロンリネスでもいい。孤独、さみしさ、なにかを失ったという状態…。

 私の座った1階右手側の奥の方からは、その光の線が、朝日を連想させた。


幕が片付けられると、左に犬小屋のような小さな家がある。右には、ススキだろうか(ススキだとすれば、森だろうか)。矢かもしれない。
 
 前の舞台より奥に向かって低くなっている。

犬小屋という場所での動きは、「線上にて」のいつかの回での、机のダンスを引用かと思いきや、穴のなかへ落ちていくのだろうか、上半身を穴にひそめて、熊のぷーさん状態。全身が部屋のなかへ入る。あの小屋が、本拠地のひとつであるplanBなのか、劇場(屋外を含めた観客を伴う上演という空間)なのか、引きこもった下宿の部屋なのか、「穴」だとしてなんの「穴」なのだろうか。こうした多義的な見え方を、ある一意に決定するのはいまはやめたい。
 小屋からまた出てくる。時間感覚をずいぶん遅延化によって麻痺させられているので、このあと覚えていないが、ススキのところで、脱いで、黒のスーツに着替える。

それから前の舞台に進み、また佇み、脱ぐ。これは笑えた。
脱いだ衣服を小屋へ置きに行く。これも滑稽である。
 
 ブリッジをいつしたのか前後が分からなくなったが、あのブリッジで、前回「脱臼童体」では、舞踏の聖歌カントルーブのオーヴェルニュの歌が流れたのだった。今回も流すのかと思いきや、流さず。今回の上演では、楽曲が使用されることはなかった。野口実さんの音響のみである。別のシーン、初めの方のシーケンスで、サイレンのような音は今回も入れられていた。

 よくわからない布地のふんどし(薄い緑?)姿で、空を仰ぐ+ボーゲン。落ちる。
またボーゲン。落ちる。繰り返し、落ちていく。
 奥で、折りたたまれた幼児のような(終演後、あるひとからお地蔵さんともきいたw)、ノイズ=闇でほとんどかすれて見えない。この消し方(光∽闇)は、ベーコンやジャコメッティの引裂線を思わせる。

 oさんとも話したことだったが、なんにしても、いまどき、この規模の劇場で、このようなストイックな上演をやること、このような黒いダンスを見ることができたということ、そのことが稀有なことであり、喜ばしかった。