感性論における主体の帰属について

再び徹夜で、昼に書類完成。
少し休んで、大野慶人先生の舞踏公演@テアトルフォンテ。新宿から湘南新宿ライン相鉄線いずみ中央まで片道¥910。kさんがいつもブログで書いている横浜駅ジョイナス口(相鉄線)前の立ち食いそば鈴一に行き着く。なるほど雰囲気は、最高だ。たしかにおいしい。とくにつゆ。ただ私は普通に富士そば小諸そばなどを日ごろ愛用しているので、つまりそうしたメジャーな立ち食いそば屋の味も好んでいるので、そこまでの驚きはない。つまり、時間帯、つまり、店員のゆで具合によるが、おいしい富士そばは、実においしいのである。神田まつやは別枠としても、藪そばなど高級そば屋は、たしかにおいしいし、好きでもあるのだが、「大衆性」=「便利性」=「経済性」の観点からすると、アウトである。屋台のそば屋も昔あったというが、それこそが蕎麦である。
 この日の上演後、久しぶりの佐藤さんらと軽く飲むが、そのとき話題のひとつになったのも、蕎麦であった。蕎麦の歴史。蕎麦自体は、各国にあるという。ただ、それを麺にしたのは、日本人だけだという。蕎麦は、荒地でも肥沃な土地でも、同様の収穫率であり、人為的な労働による介入が必要ないとのこと。それに対して、小麦などは、労働の介入があればあるほど収穫率があがるらしい。
 行きの電車のなかで隣に座ったひとが東京バビロンの方だった。劇場経営などについて。事業への投資という賭け。この話題は後に、何度も劇場で顔を見ながら、話したことのなかったtksgさんとボードレールの賭けについて話したことと繋がる。
 ここ何年も顔を合わしていない研究所の人々がいる。これは、以前、西荻窪について感覚したものに近い。つまり、かつて住んでいた場所への、時を隔てたあとでの、回帰するような、独特の感覚。そこにかつてと同じ構造のものが現前している。しかしその感覚像が、フィルターをかけられたものであるかのような、とでもいえばいいのか、なにかである。ノスタルジアというのでは、微妙に、ない。ノスタルジアは、失われた時や場所を懐かしむ感情のことであり、その喪失した対象を志向している。ノスタルジアが一般に(?)問題とされるのは、その「志向」が、「回帰」であり、あるいは「退行」であるような事態ともなるからだ。しかるにこの場合、とくにそうしたことではなかったわけだった。ノスタルジアと同じくある隔たりの感覚があるのが、ノスタルジアはその隔たりを埋めようとする、補填作用のようなものであるのに対して、私が記述せんとする感覚は、その隔たりのことだろう。この隔たりは、「久しぶりー!」などという発話とともに、「旧交を温める」などという定型表現によって指示されるがごとく、「埋められていく」ものである。
 満員。フォンテは二度目である、一度目は、OM−2だった。二階があるとは知らなかった。舞台は、質素なシンプルなものだった。先人へのオマージュによる構成。水夫のシーンをはじめ、いろいろなところで独特の滑稽さがあり、またそのシンプリシティは、ホーゲさんを彷彿とさせるものであった。幕によって切られる右奥よりの斜めに切り込む照明を、効果的に使用されていた。カーテンコールで、一雄先生が出てきた。口を開けたままで、反応がない。99歳の老体である一雄先生をこのように出すことに対して、批判もある。どのように考えればよいのか。その種の批判は、いわば「人道的な」観点からのものである。本人の主体性が奪われたところで、衆目の眼に「晒す」ということはいかがなものかという趣旨である。だがこの批判は、以前よりもあり、一雄先生の実質的な遺作「花」の際にも言われていたことであった。当時スタッフで入らせてもらっていた私は、そうした批判の理も分かるが、しかしやはり舞台上の大野一雄の踊りを見たいという欲望の方が勝っていた。そして、あの「花」は、最高の舞台のひとつでもあったわけだった。初日、一雄先生が、慶人先生を振り払ったとき、そのごく正当なるエゴイズムに、私は感動し、泣いてしまったものだった。私は九州男児なので、男子が泣くことは、タブーである。だから、泣きたくとも我慢する。だからよっぽどなことでないと、泣くことはない。ま、それはともかく、以降私は先生およびスタジオを距離を取る。一言でいえば、「満足」したからである。つまり、当初の目的であった欲望(生で見たい)が充足されたからだった。実際、これ以上、欲望することは、なにかおこがましい感じがしたものだ。あるいは依存関係に入ることは危険でもあると考えたからでもあった。精神分析でも、患者(分析主体)と分析家との転移関係(欲望が相互に転移したりすることなど)は、重要な問題である現象であるが、これはおそらく、あらゆる「教育関係」にも見ることができるだろう。このことについての体験があったから、やはり精神分析を学習しようとも思ったのだった。
 さて私は、今回、すでに欲望を充足したものとして、「冷静に」「客観的に」つまり、感情没入させることなく、場所で起こる出来事を眺めていた。かつて「人道的な」批判を発したひとはさる高名な舞踏家であった。その方も、すでに欲望を充足していたがゆえ、あのような「客観的な」批判を発言したのだろう。さて私はいまそのように発話することに対してはやはり躊躇がある。
 まず主体性が奪われていることに関して。これについては、本人の自己意識に聞くしかないが、もはやそれはできない。
 では主体性を奪われた主体を「晒す」ことについて。ここについては、「想像」するしかない。つまり、一雄先生は、舞台にあのような形で立つことを、本意とするのか、不本意とするのかである。踊り、舞台に立つことに対して過剰なまでに欲望を持ち、かつ舞踊史に名を残す仕事を果たした大野一雄であるのだから、きっと舞台にいつまでも立ち続けたいだろう、という「想像」・予測。このことが担保になっている。
 しかしやはりこれはどう考えればよいか分からない。合意を形成することができない「主体」について。いわゆる「植物人間」(しかしこの言い方は正しいのか)の問題なども視野に入れるべきだろう。
 
 また別の観点から、「感動の共同体」批判があり、舞台鑑賞の理論においても、それはすでにブレヒト以降、歴史もある。私も彼の踊りに「感動」した人間のひとりであるがゆえ、その批判を行使することはできないのだろうか。問題は、その「共同体」に帰属するかどうかである。これまで(小学生などの幼年期より)、私はその手の「共同体」に帰属することに対して、ずっと抵抗してきた。それが私の基本的な態度である。とりあえず私は、「共同体」に帰属する前に、「個人」、単独の主体として、「感動」した。この区分でとりあえず批判から逃れることができると思われる。だが、さらに別の問題が発生する。この「個人主義」的な志向性に潜む問題である。これは一般化して、個人主義の問題といってもいいだろう。感性論における個人主義・共同体の問題。
 「個人主義」は、これは隠語でもあるが、「単独者」であることを選択することにも連なる。この態度決定については、すでに多く議論もなされている。だが私にとってはやはりいろいろ不明な点が多い。
 つまり、なにかしらの関係性に帰属することなしに、「単独者」であることは不可能であるという論点である。これは常識的な社会学的観点からすると、基本的な認識であり、私もそれに賛同する。問題は、それゆえ、いかなる関係性、いかなる共同体に、帰属するのかということだ。
 この帰属問題についても、決定論的な見方と、選択を認める主体論的な見方とがあり、対立する。現在、とりあえず、私は後者を選択する。だが、主体は、外的な環境と、調和するとは限らない。むしろ、齟齬をきたすことの方が常態である。主体にとって、環境は、抵抗する(それゆえ、摩擦する)。また環境に対して、主体は抵抗する。むろん、双方が調和することもあるし、それが「秩序」の均衡点でもある。
 均衡点が有限か無限かは分からない。それにそもそもそれが問題となるかも分からない。
 だが、いずれにせよ、均衡点は、複数あるし、偏在する。同様、抵抗点も、複数あるし、偏在する。
 そうして、点よりも、点と点とをつなぐ線のレベルへと視点をずらす必要がある。どのような線、線引きを構想するのかということである。保留。



 批評誌クアトロガトスを、廃業シンポに参加した(させられたw)からとの理由で、贈ってもらった。買おうと思っていましたのに、どうもありがとうございます。
 内容は、充実している。すくなくとも、500円は、実に安い。常識的には1000円の出版市場価値があると思われる。
 やはり白眉は、鴻英良さんと海上宏美さんとの対話である。このような衝突する対話は、中上健次の対話とか、さらにその前の時代の座談会などと共通するもので、最近(まあほとんど文芸誌なりの雑誌を読むことは少なくなったせいもあるが)はついぞ眼にすることがない。ずいぶん、面白い。実際に、両者の声を知っているので、声がライブで伝わるように感覚されるということもあるかもしれないが、いやそんなことも関係なしに、掛け値なしに、読み物として面白いと思う。
 そこで話されている論点は、かなり膨大で、また重要でもある。が、かなり難解である。



ラカン伝読了。チョムスキークワインらとラカンチョムスキーにとって、ラカンは、「知的障害者」であったという。脳でなく足でひとは考える旨の発言に関して。
 後期ラカンにおけるジョイス
 ネオロジズム。 

エリボンのフーコー伝によれば、フーコーがその人生の晩年において探求していたことは、性的快楽である。ルディネスコのラカンは、所有する快楽とでもいおうか。財の所有。「金」である。

ミレールの編集問題、遺産相続争い。
ミレール派であるジジェクについて、触れられることはない。