転移

解体社関連については後ほど。
(12/14追記:書こうかと思ったが、この日、さる中年男性にありがちちゃありがちの権力妄想による攻撃で、不快な目にあったので、この不快感情が消失するまでは書かないだろう。ま、いろいろ楽しかったことが、そいつのケチな自我機能によって乱されたことは残念だ。つか、ありゃ孤独死だby中国女。私以外の人もうんざりしているわけだが、私の知るその事例においては法に抵触しもしている。私はさしあたっては関係においては善意をつねに想定している(そうしないと、世には悪意だらけということになり、悪意と憎悪のスパイラル世界ー大文字の世界の「現実」がそうだとしてもーを肯定することは私にはできないからだ。むろんこの肯定とはニーチェ主義的な批判の意味合いにおいてであり、資本主義イデオロギーとしての現実主義的な意味合いにおいてではない。)ので、やつの会話内容について一蹴せず一週間ほど検討してみた。結論は、無内容であり、無価値であった。それはたんに彼の自我の問題にすぎなかった。転移現象はなにも分析関係においてのみ見いだされるものではない。それは一般的な社会関係においてむしろ頻繁に見てとることのできるものだ。ラプランシュ/ポンタリスの事典によると、フロイトはこの転移について「…無意識的表象はそれ自体では前意識に入ることはまったく不可能であり、それは、すでに前意識に属している無害な表象と結びついて、その表象に自己の激しさを転移しその表象によって蔽いかくされる場合に初めて、効果を及ぼすことができる」と記述している(『夢判断』)。「議論」の賭け金となるのは、この「前意識に属している無害な表象」である。そしてそれは、やはり「無害」であり、「無害」である限りにおいて、思考へなんの刺激ももたらさない。そしてゆえにその発話は「議論」ではなく「おしゃべり」であり、延長された自己へと延々喋っているだけなのである。つまりなにをやっているかといえば、自分の確認、「自我」の存在確認である。まあ、あんまり一般理論でやると、ぼやけてしまうので中断するが、教訓は、論証的であれ!