経済と趣味

で、flashかあと思って、入門しようと思って、

Flash入門講座-Flash始めたい今日この頃-しっぽのとこ-

を見た。
 へえという感じであるが、しかしこれだといつまでたっても、タイドランドには行き着けなさそう。アニメーションなのね。つまりは。
 うーむ。入門しようにも…気が遠くなる。かといって、せっかくメディアリテラシーなるものを勉強しようという気になったのだから、あと人生30年あるとして、がんばろうかとも思うが、しかしあと30年しかないのかとも思う。
 でもまあ仕事だと思えば、このリテラシー、勉強して損することはない。
ま、問題は「仕事」のプライオリティ。
 1・english
2・メディアリテラシー
 3・経営、法関連のビジネス
 4・株とかw(夢としてのw 宝くじでもよし)
 5・思想とか文学とか(人生享楽するための命がけの「趣味」なるもの?)
 6・実作・創作(ジャンル無視)

まあこんなあたりが大きくは人生での課題。
こうしてみると、人生は、経済と趣味とで双極的に構成されている。
経済そのものを趣味とすれば、それは実業主義とでもいうべきものだろう。
思想(倫理、政治系含む「趣味」=「芸術」。創作も含まれる。)を趣味=利害=interesの対象というか賭け金とすれば、わかりやすくいえば、芸術至上主義のようなもの、もっと正確にいえば、フィクショナリズム?空想主義?→構築主義である。
 さらに厳密にいえば、実業主義もまた構築主義ではある。
 そうすると、なにが異なる二つのベクトルを作っているのか?
ここでよく「現実」とか「リアル」とかの話になるが、それは違う。「リアル」という現象(感知されるもの)は、ベクトルや領域問わず、発生する、認識を破って認識されるようなものであるからだ。これが「もの性」とか「物自体」なのかは、また典拠しなくてはならないので、不明ということにしておこう。
 ざっと考えると、この人生双極構造シェーマは、確定的なものではない。二つのベクトルは、相互に乗り入れ可能であるし、実際、社会的事実としても、相互に乗り入れされている。
 であれば、このシェーマは無用のものだ。「経済と趣味」なるものは問題ではない。

 シェーマを消してリセットする。それでも人生は続いている。
ひとつの契機に、コミュニケーションがある。そしてその目的は、コミュケーションの快楽を享楽することである。「出会い」の享楽…
 これはまた、承認を巡る争いだ。

 幸福という価値指標がある。これは「充足」と言い換えることもできる。

やはりこのように運んでくると、ヘーゲルフロイトラカンの欲望理論が際立つ。