歴史・論理・感情

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060225より。
http://blog.livedoor.jp/mahorobasuke/archives/50487989.htmlというエントリー。
ホテル・ルワンダを見ても…。
町山さんの「虐殺の種」という言い方はいい。
しかし、こういう差別主義者=レイシスト、というか、論理の破綻においてプチもプチのレイシズムをどうするか。
 
 日本人が韓国人を嫌う。韓国人が日本人を嫌う。日本人が中国人を嫌う。中国人が日本人を嫌う。
憎悪の連鎖、憎悪の相互作用があるとき、好きになれといってもむろんむだである。
 長期的な妄想展望をすれば。
 日本、韓国、中国の三者関係は良好になるには、あと200年以上かかりそうである。そのころにはもう「日本」とか「中国」とかいう国民国家のフレームがないかもしれない。EUのような東アジア共同体、インドまでを含めた、アジア共同体のようなことになってるかもしれない。
 しかし、それでも共同体内部での矛盾、差別主義的な心情、悪感情が、消えてなくなるわけでもないだろう。
ということで、こんな妄想はむだである。歴史と妄想とは異なる。

 では、歴史とはなにか。歴史解釈とは。
 「修正主義」の立場を根底から否定することはできない。なぜなら、歴史は、解釈しだいではあるから。
 ではなにが問題となるか。
 論理である。ただひたすら、正しい論理、正確な論理である。
 
 件のエントリーは、論理的にほぼ完全に破綻していて、哀れなほどだ。
 関東大震災についても、ネットで、たとえばウィキペディアの項目を読むだけでも、その誤りが正される程度のものである。
 ではなぜあんなエントリーを書くのか。
 韓国人、とりわけ「韓流」への嫌悪感情によることは明らかである。
 そして、この隣人への悪感情、これは「民族」とかの集団化されたものになる前の、一般的な人間関係においても、ごく普通に存在するものである。
 その根源から潰すことはいかにも難しいし、それは不可能である。
 「人間」の感情の根源的な革命は不可能である。
 しかしまた、テクノロジ−による環境変化によっては、そうした感情も、変化していくことはある。
 
 不幸が減り、幸福が増大すれば、悪感情は反比例的に、消失していく。
 これもシミュレーションである。
 が、このシミュレーションから(「悪感情」や「レイシズム」もシミュレーションであるか)、ある「現実」が浮き彫りになる。
 つまり、現実における不幸。 

 不幸な意識。ゲーテヘーゲルニーチェフーコーの系譜における分析。

嫌韓嫌日・嫌中は、いずれも「民族」というカテゴリーを巡っている。
 この種の問題は、「階級」というカテゴリーにおいても同様である。
 階級憎悪の問題も、結局は、ある個人の主体が、どのように階級意識をもっているかの問題である。
 そもそも実体としてそのようなカテゴリーがあるわけではない。
(社会から超越した存在ではない。社会的に構築されているものという意味。)
 カテゴリーはすべて思考の産物である。
 だから、そうしたカテゴリーの実体がなんであるかが問題なのでなく、そうしたカテゴリーをいかに個々人が認識しているのかということが問題なのである。
 
 件のエントリーに戻れば、これは歴史認識の問題である。歴史のリテラシーといってもいい。
 
 こと教育に関して、作る会がいっさい間違っているのは、歴史を物語として考えている点である。
 しかしいまや(といっても20世紀前半であるが)マックス・ウェーバーをはじめとする社会科学があるわけだから、真に「矜持」を得ようとするのなら、「物語」ではなく、できるだけ客観的であることを倫理とする社会科学を、教育で教えるべきなのだ。そもそもが。
 
 隣国嫌悪について、イングランドアイルランドウェールズ、ドイツとフランス…その他やまほどある。宗派(セクト)の争い…。
また日本国内でも、隣県嫌悪もある。こうした「県民性」などを考慮にいれると、それがやはりある「拡張されたアイデンティティ」の問題であることが分かる。
 実際、ナショナリズムの問題も、バリバリに割れた「自我」をいかに修復するかという問題のひとつの解決として生起している。「ともかく、私は、日本人である」という意識=アイデンティティ。この帰属先の集団の実体がなんであるかは、こうした意識にとっては問われない。なぜなら、ある母集団に帰属しているということつまり帰属意識そのものが、意識の安定性を保証しているからだ。
 しかし、こうした帰属意識のベクトルがローカルなものに向かっている場合、それは閉塞していく。同一性に向かっている。
 対し、そのベクトルがユニヴァーサル=普遍的なものに向かっている場合、そして、かつある同一性に満足することなく、差異に開かれていくこと。その場合、その意識は、開かれてあるといえるだろう。
 同一性を価値基準にした場合、それは差異を埋めていく。つまり差異をなくす方向である。
 「日本人」という同一性のなかに、いかなる差異も認めないという時(社会的な実体としては、実際にもそのようなものだ)、それは「虚」である。
 他方、差異を価値基準にした場合は、これはこれで紛争が絶えない。また、「差異」を認めた時点で、欺瞞的な思考停止に陥る。「多文化主義」ないし相対主義の問題である。
 差異を前提にしたうえで、ある普遍的なものを求めていくという方向。これは理念的な啓蒙主義であるが、やはりここにとどまることがもっとも、健全であり、「大人」であると思われる。
 しかし、時間は流れるものだ。わたしたちはだれしも歴史的な状況から逃れることはできない。どれほど超越論的な立場をとろうとも、その論理の位置取りにおいて、それは論理の歴史のなかにある。
 そして歴史は、単線的に発展するというより、ヴィーコのいうように循環するものである。
 普遍主義もまた、時、歴史の流れのなかで、差異化されていく。
 そうすると、歴史は、おのずと、差異を求めるものなのだろうか。
 そうかもしれない。
 なぜなら、ある「同一性」とは、ひとに退屈、もっといえば苦痛を与えるものだからである。
 しかしながら、なぜ差異は同一性に回収されるのか。それは、そもそも「差異」と「同一性」とが、それぞれ相補的なものであるからだろうか。つまり、両者は、相互の差異において、定義づけられるカテゴリーコードであるから。
 ふたつの差異を分けるのがいいかもしれない。カテゴリ−関係における差異と、差異それ自体。
 後者を、カントの物自体の概念に合わせて、「差異自体」といってもいい。
 この差異自体は、物自体のように、人間の認識からどこまでも逃げていく幽霊のようなものなのか。
(…)
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関東大震災についてのエントリー。
http://d.hatena.ne.jp/kairiw/20050825