蛆虫の笑い:コメントスクラムとドグマティズム

前日のエントリーへのコメントを、エントリーにします。理由は、後にもっと深めるため。

しかし、かのひとの馬耳東風ぶりというか耳塞ぎぶりは、すごいですね。あそこまで「強い」のは、敬服します、と思わずいいたくなるw まあかのひとに限らず、「ひとの話を聞かないひと」というのは、往々にして「強い」ですねw』

という私にコメントに対して、-さんが、

しかしその「強さ」をもって正義を自称する者が「悪魔」を狩るのです。比して分別のなんと弱きことか。笑えない。

とコメントした。
それへの応答が以下。

私は笑いの力を、あらかじめ笑いを封ずるような「分別」や「正義」よりも(それはあなたのいう意味でも)、信じています。件のブログのコメント欄のスクラムにあるような「嗤い」に対しては、「笑い」で応答すればいいと思う。匿名での中傷などは、最も簡単なやり方で、「自己」の保身を図っているだけにすぎないのだから。それが勢力として無視できないとしても、それは「落書き」以上のものではない。分別=理性に訴えるのならば、二次元のフラットな「現実」(表象)よりも、三次元の現実(まあ変ないいかたとなりましたが、いわゆる社会的現実というやつです)において、闘っていけばいい。表象としてのレイシズムと社会的実体としてのレイシズムとの間には、私はずれがあると思います。私は後者のほうがもっと陰湿だと考えます。もっと巧妙だし。
 分別=理性の欠如を嘆くよりも、そもそもそのような「理性」があるのか、あるとすればそれはどんなものかを問うほうがいい。私は基本的には性悪説をとるし、また「理性」や「合理性」の名の下にどれほどの悪行が行われて来たかを考慮にいれて、そのように思います。それに、そもそもネットスクラムごときものと、社会的現実としての虐殺やホロコーストとを連続して考えるわけにはいかない。感情のありかたとしては、前者と後者は一見似ていますが、それは思考の形式における類似です。現実の虐殺はもっと複雑な現象が相互に作用しあって(そのなかにはもちろん偶然性のようなものも含まれる)、成立する。
 たとえば、あのような書き込みのような発言が、匿名でなく、だれか社会的に有力な複数の人間によって、テレビなどの広範囲にわたって影響力を及ぼすようなメディアのなかで行われ、かつそれが多数者に支持された場合、それは社会的実体のレベルにあると私は考えます。しかし、かりにそのようなことがある場合、全世界のマスメディアで批判検討されることでしょう。デンマークのユランズ・ポステン紙ムハンマド風刺漫画事件のような出来事を想定してみてください。
 「分別」とはそれこそあのような事件があったあと、どのような対策をとるのかで問われます。ネットでの匿名レイシストにそのような責任をとる能力はないし、そもそもそうした責任を放棄したところから、喋っているだけです。その卑小さは、笑うしかないでしょう。
 笑いの力を信じると私はいいました。では、ムハンマド風刺漫画を笑えるか。私はあの絵は、風刺絵として笑えませんでした。でも、サルマン・ラシュディの傑作小説「悪魔の詩」は笑えます。私は個人的な体験としても、欧米人のレイシズムには相当腹が立ちます。でも、ドイツの街で私をあからさまに差別したやつの顔は、いまもギャグです。といいながらもそのときは無論むかつきましたし、殺すぞ!ナチ野郎!とか思いましたし、いまでもそう思いますが、私がいいたいのは、そうした対面されるような相互行為の場においての出来事のレベルとネットでの相互作用とのレベルとの差異です。…
 あと、私がいった馬鹿の「強さ」というのは、もちろん皮肉です。ステレオタイプルサンチマンの奴隷となった馬鹿の馬鹿っぷりは、むろん限りなく無価値で、それはただ怯えているだけの受動的な、弱いものです。私が嫌いなのは、ドグマティズム=教条主義であり、それは右翼、ナショナリストレイシスト、左翼、反戦家を問いません。思考とは、新しい経験を求めるためであり、新しい喜びを求めるために行う行為だと思います。たしかにひとは(私も含めて)ある一般論的な考え方を金科玉条として、それに呪縛されやすい。そうした呪縛から逃れることが、もし絶対的にできないとすれば、それは最悪で、もう自死しかないw でも、フローベールが「愚かさ」を、ベケットが「最悪」という情動を、描ききったように、ひとはまた、そうしたなかでもなお生きることができる。そのような人間のいわば本能的なあるいは動物的な強さを、笑いの力というのは指し示していると思うのです。生命の力といっていいでしょう。H・G・ウェルズスピルバーグの「宇宙戦争」での火星人からすれば、人間は、蛆虫のようなものです。でもそんな蛆虫のような微生物によって、火星人はやられてしまう。別に私は地球人に擬態した火星人ではないのですが、火星人的な観点は持てる。それはでも言語を持ったものであれば、だれでも使い方次第で持てる。他方、私は蛆虫の一匹にすぎない。ネットウヨスクラムに腹立ちもするし、そのたくましさに感嘆しもするし、そもそもそんなページを見るほどの馬鹿でもある。
 私はそもそもある一定の考え方に安住することができない。これはほとんど性格といっていいほどのものです。だからこうしてぐるぐる動いている。それが私の生き様なんですw とこう書くと、「ミミズだって、オケラだって〜♪」というあの童謡が聞こえてきて、いやだなあと思ったりなど。