トリシャ・ブラウン

トリシャ・ブラウンを見た。アメリかのポストモダンダンスの雄。
基本的には反重力というモチーフで、リリーステクニックが多用されているため、運動の印象はふわふわしている。コンポジションについては、ダンスとはなにかということを綿密に練りこんだ作業を踏まえているため、さすがに緊密であり、時折入るわけのわからないポージングが滑稽である。
 Set and Reset(初演1983)は、装置・衣装がロバート・ラウシェンバーグで、三角形のテント状のものを左右にして、中央には台形の装置が置いてあり、そこへ上方奥よりプロジェクターで映像が投射され、ローリー・アンダーソンの音楽が流れている。それらの装置が中空へと上げられたあと、おもむろにダンスが始まる。
 コンポジションは複雑である。この複雑性は、フォーサイスの複雑性とは異なるものだ。いずれにしても一度見ただけでは、振付・コンポジションの分析はできないので、印象で書く。なるほどブラウンのコンポジションから、バウシュ、ケースマイカー(とりわけドラミングやファーズ)がどれほど影響を受けたかを納得できた。
 予測のつかない構成は、その初期に、インプロヴィゼーションの研究に打ち込んだ成果=痕跡であるように思われる。群舞としてのボキャブラリーの豊かさも、現在の時点から見ても色褪せていない。バレエでもコンテンポラリーでも舞踏でも、先の読めるものがある。「ああやっぱりこうなるか」というものだ。これは「オチ」だとかのコンセプトの話しではなく、動きそのもののコンセプトにおいての話しである。そもそもインプロヴィゼーションとは、予見不可能性、pro(前)をvisio(見る)ことがim(できない)というのがラテン語系での語源である。このようにそもそもインプロヴィゼーションは、いかにしてダンスのコードないしステレオタイプから逃げることができるのか、新しいダンスはどのようなものかというインヴェンション(発明)の欲望に導かれているものである。
 アンナ・ハルプリンの影響下、ブラウンやイヴォンヌ・レイナー、シモーヌ・フォルティ、パクストンらジャドソンチャーチの基本的な実験・実践のひとつの大きなフレームが、その意味での、予見不可能性=新しさを探求するインプロヴィゼーションであった(のだろう)。
 またもうひとつの大きなフレームが、いわゆる「パフォーマンス」と称されるジャンルに連なるものだった。「パフォーマンス」なるものがひとつのジャンルとして形成されうるものなのかはさておくとしても、これは「行為ーアクション」をメディアとしてとらえたうえで、行為とはなにか、その行為性を問うものである。しかしこれもまた、新しさ、すなわちさしあたって既知のものではない、未知の領域を切り開くこと、ないしはそのメディア(ここでは行為やダンス)の意味ないし概念(コンセプト)を拡張させようとする欲望に貫かれているものである。
 ブラウンは、ダンスを否定するところからはじまったという。しかし正確には、ダンスを否定したのはレイナーであり、あるいは、「踊らない」ということをもってダンスとした土方巽らのより遠いところまで達した作業に比べると、むしろ「脱構築」ないし「再構築」とでもいうべきものである。
 ブラウンの思考が、なぜリリースをも批判するようなところへ行かなかったのか(かつてそのような作業を行っていたのかもしれないが、上演された4作品を見る限りではそのように見ることはできなかった)は分からないが、結果として、とても穏やかで、大変興味深い振付であるが、しかしどうしてもまったりとしたものであり、つまりは硬さがない。しかしこういったからといって批判したいわけでなく、あくまでブラウンの特性を見定めたいがためこういう。
 バウシュは、ブラウンらのダンス再考作業を吸収しながらも、よりテマティックなもの、たとえば歴史や感情の記憶といったもの、およびヴィグマンらドイツ表現主義における感情やエネルギーといったともすれば古いとも思われるがしかしやはり強度をもたらすような(つまりエネルギーと名指すほか無いような力の状態)カテゴリーに順じ、あのような多くのひとを魅惑する舞台を作ってきた。バウシュのダンスは、ブラウンと異なり、フォルムが「硬い」。具体的にいえば、肘や膝などの角=エッジが印象的で、この硬質さは、やはりヴィグマンやクロイツベルクの系譜を引くものである。同じく、この硬質性は、大野一雄笠井叡らのダンスにも観察することができる。この硬質性はしかしなんだろうか。たとえばヴィグマンのヘクサンタンツでの凝縮し張り詰めた動きやクロイツベルクの固まった手振り。やはり力、エネルギーという概念がある…。
 一方、ケースマイカーのローザスは、ブラウンらのコンセプチュアリティ=概念志向性を保持しながら、強め(スパイラル螺旋モデルや数学モデルの援用)、さらにスピードを与えることで、同じくすばらしいダンスを作ってきた。これらの点は、フォーサイスにもあてはまる話しである。
 たしかにチラシの宣伝文句通り、ブラウンなしにバウシュもフォーサイスもいなかっただろうと思わせるものだった。また、痒いところに手が届くような印象もあった。ダンスとはなにかを問いつめるとなると、どうしてもジャドソンチャーチらがやった作業とリンクするだろう。しかしまた、ジャドンソンチャーチのみが「ポストモダンダンス」ではない。
 帰りの電車で合田先生に話しを聞きながら帰ったがそこでも話されたように、やはり土方巽の仕事もやはりまた忘却されている。
 簡単な図式化をすれば、ブラウンの仕事は内在主義である。外へと突き抜けていくような契機は、モチーフのレベルではあるが、ダンスにおいては実現されていない。いや、そもそもブラウンの仮想敵としたダンス(よくわからないがバレエに代表される古典的なダンスか)がそのような超越志向的な契機をもっていたわけであり、はじめよりブラウンは内在主義を選択していたのだろう。
 土方の仕事は、バウシュと類似しつつも、やはりまったく異なるダンスないし身体思想を築いている。否定ダンス、「ダンス」をずらすこと、微粒子、衰弱体(反エネルギー)…。
 ブラウンを見てもっとも印象的だったのが、そのリリース性である。簡単にいえば脱力系。これは土方の「衰弱体」というヴィジョンがそうした脱力ではなくむしろ反エネルギーあるいは非エネルギーとでもいえばよいのか不明であるが、とにかく、その両者の違いである。トリシャ・ブラウン土方巽、ともに重力を問題とし、前者はいわば中間に浮遊、地上=日常にとどまり(内在主義)、後者は、中間=日常もむろん基本空間としながらも、そこへ過去・歴史・風土といった「外部」のものを折り込んでいった。その折り込み方は実に感嘆に値するものである。久しく距離をとっているがブラウンを仲介してまた出会った。
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 Present Tenseでは、中空にダンサーの体が幾度も持ち上げられ、かつフロアーを多用する。あきらかに、重力とそれへと逆らうことが問題とされている。むろんこれはDVDにも収録されている壁歩き(いろいろヴァリエーションがある)などにも共通するものであり、おそらくはブラウンの根本主題のひとつであろう。
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 とりわけGroove and Countermoveの衣装は同時代的な視点からすれば、お笑いである。これはカニングハムの衣装もそうである。あれはしかしなんなのか。振付があれだけ洗練されているのに、衣装はといえば…。
 これは単に世代とか昔だからとかいう問題ではないと思う。たとえばシュトックハウゼン神秘主義的なシンボリズムに満ちた昨年のパフォーマンスにおける衣装もそうなのだが、あれはなんなのか。
 どうしても矛盾を感じた。「日常性」を基礎フレームとするのなら、なぜカジュアルな衣装に徹しないのだろう。
 どのようなコンセプトがあの衣装にあるのだろうか。さまざまな色。しかしなぜ上下同色なのか。むろんこれは細部の問題にすぎず、そうだからといってブラウンのコレオグラフィーの価値をさげることにはならない。しかし、細部であるが、その理由=コンセプトが分からない。
 もしかすると、具象性を徹底して排除していった「抽象表現主義」ということなのだろうか。匿名性?普段着だとあまりに具象的で、なにか社会的文化的な意味をいやおうなく帯びるから、退けたのだろうか。しかし、それならば、音楽はジャズやグレイトフル・デッドといった抽象的というよりかはむしろ具象的な楽曲使用のコンセプトもまた分からなくなる。
 
 匿名性・抽象性・透明性を志向するベクトルと、固有性・特異性・具象性を志向するベクトル。いまちょうどデリダの「ユリシーズ グラモフォン」を読んでいるが(ウィウィ)、このベクトルの差異は、フッサールジョイスのベクトルの差異とも連関するかもしれない。
 いずれにせよとても刺激的なダンスであった。