サイード・パレスチナ問題・帝国

イードの「ペンと剣」読書中。
セム主義についての訳注(p.242)。
セム主義(これまでの一般的な日本語訳だと「反ユダヤ主義」)の感情の標的が、第二次世界大戦後、ユダヤ人からアラブ人へと移転した(cf.「オリエンタリズム」第三章第四節「最新の局面」)。
 ブレイク「帝国の土台は芸術と科学である」p.95
コンラッドpp.95-101.近代帝国における「奉仕」の観念。犠牲、救済、使命、「恩恵的支配」?…。

 たしかにイスラエルないしユダヤ人に関しては、ナチによるホロコーストという出来事の重さというかある絶対的なレベルの事態が、思考を停止させてきた。アドルノの「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」といった有名な言明、というかその言明をスローガンとして受容することに代表されるような。
 しかしナチのホロコーストの特殊性あるいは固有性を声高にいうことは、それ以降のホロコースト、虐殺に対して、ある特権的な位置を置くという陥穽もあり、実際、そのような思考停止の陥穽に落ちてしまうことはよくある(あった)。これは原爆についても同様な事態がある。「アウシュビッツに比べれば…」「原爆に比べれば…」という、社会的歴史的相対性を超越したある絶対的なレベルにあることをもって、他のあるいはそれら以降の出来事を問題としない傾向のことである。むろんナチのホロコーストや原爆については、固有の問題もあるのだろう。しかしそれらの問題の本質は、近代の編成原理の問題であったり、科学技術の問題であるのであり、それは固有ないしローカルな問題というよりも、普遍的な問題である。
 サイードは「いつだって一部始終を最初から繰り返さねばならない」と語っている(p.67)が、今日のプチファシズムであれ大ファシズムであれナショナリズムであれ(しかしサイードナショナリズムについては諸々議論もあるのだろう)、それらに「対して」なにかを語ろうとするときは、まさにサイードのいうごときである。
 「アウシュビッツはなかった」とするアホないわゆる「歴史修正主義」は論外としても、しかしアウシュビッツ問題を考えつつ、パレスチナ問題について考えること、そして可能な限りそれら二つの問題へ同時に関わることは、たしかに難しい。いや難しいこともないのであるが。というのは、この本を読めば一連の問題がかなり明瞭に見えるからである。
 つまり問題は、アウシュビッツ問題が、パレスチナ問題に対してプライオリティを主張してしまうこと、あるいはそのような問題としての優位性が機能してしまうことである。
 イスラエルないしユダヤ人問題については日本でもある一定程度一般的に了解がある。ダンス界でもイスラエルコンテンポラリーダンスはよく来日する。そして、よく「イスラエルは大変ねえ」という意見というか臆見を耳にする。イスラエル人ないしユダヤ人に対してそのような共感あるいはイスラエル問題があるということを認知していることはもちろんよいことである。というかそれはむろん常識であるべきなのだが。というのもそのような問題を知らずに、イスラエルへ観光旅行した若い日本人カップルの報道は、まったくの恥さらしとして記憶されるべきである。
(その日本人カップルはイスラエルで、「え?ここでなにかあったんですか?」と聞いたという。)
つまり、日本における教育の実質の問題として。つまり、世界基準からすれば、日本の教育水準はおそろしく低いということを、あのカップル(バカップル)は例証しているのだから。これは実に大変な問題である。
 それはそれで重要な問題であるとしても、ことがらがあまりにどうでもいい(日本ローカル問題。しかし同じ日本人としてはやはり問題である。)のに対して、問題としたいのは、イスラエル問題について語る人に、パレスチナ問題についてどう考えているの?と聞くと、え?みたいな反応が多いことである。つまり、サイードが指摘するようなアメリカやヨーロッパにおける「パレスチナ問題」の言説封鎖と似た、というかその縮小再生産であるような事態が、日本では体験されるのである。
 このようにパレスチナ問題について語ると、すぐ「じゃ、パレスチナに行けば?」とか「ま、うざいよね」と片付けられる。北田暁大さんらの分析により、こうした日本の傾向が、シニシズムであることが分かったわけであるが、しかしいまやシニシズムは反転して、ベタなプチファシズムないし悪しき意味でのナショナリズム(つまりサイードの加担する解放運動に寄与するようなナショナリズムとは区別されるべきものとしての)が勃興しているのを見るにつけ、事態はより最悪なのであるが。
 ユダヤホロコースト問題が、イスラエルの免罪符として機能することがあり、それがパレスチナ問題を隠蔽しネグレクトすること、抑圧することになっているということ。
 このこと自体は、そんなに問題の仕組みとして難しいことはない。ユダヤ人がホロコーストされたからといって、そのユダヤ人がパレスチナ人/アラブ人をホロコーストすることを正当化することにはならないからである。…
  
 19世紀のイギリスやフランスに代表されるような近代帝国と、それ以前のローマやスペインやアラブ(中国やモンゴルも加えていいだろう)の帝国との差異について(p.95)。
 

ペンと剣 (ちくま学芸文庫)文化と帝国主義1文化と帝国主義〈2〉

 …「文化と帝国主義」読みたい。しかし、高い…。

 ネグリ=ハートの「帝国」も評判悪いが、読んでみないといけない。