フラット→フォールド

アート業界で、フラットということがいわれたことがあった。スーパーフラットだとかも言われていた。いまも言われているのかもしれない。フラットとは、おそらくは平面性のことだ。モトネタは、グリ−ンバーグとかのモダニズム理論においていわれていたことだ。
 パースペクティヴ=遠近法が、とりわけクールベ・マネによるずらしを経て、セザンヌらの印象派をもって、ほとんど解体され、それからブラック=ピカソキュビズムによって、時間イメージが入り込むことで、ずたずたにされる…という通史。これらの絵画的知覚の革命は、同時代的=共時的には、写真の発展と映画の発明と、平行している。
 そんななか、絵画の自律性を保証するカテゴリーとして「フラットネス=平面性」が、グリーンバーグとジャッドによって彫琢される。
 そして、ジャパンにおいて、スーパーフラット

フラット、フラットに。うすくひきのばしてー。
フレームもカテゴリーもうすーく、ベターとパンのようにこねて、ひきのばしてください。

もー、特権も神話も現実も、そのボーダーがなくなっちゃったんだよー。

うーむ。ま、これはこれで、やっぱようわからんのは、それがひとつの様式にすぎないということが忘却されて、あたかもこれこそが、真の世界ヴィジョンといわれてるようなきらいがあるからだ。フラット主義がひとつの様式にすぎないことは、説明するまでもなく、遠近法だって、別になくなったわけでもなく、今日の世界のほとんどを形成している規則のひとつになっているわけだから。
 
 このあたりはまたもやむずかしいのだが、私はなんとなく、フラットも別に悪くもないのだが、しかしそれより「襞」=フォールドThe Fold=プリLe pliの概念の方がしっくりくる。「襞」の概念には、運動イメージも、盛り込まれているように思われるからだ。


ネットで以下を見つける。
http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/a_j/flatness.html
http://www.hirokiazuma.com/texts/superflat.html
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/techo11.html
http://d.hatena.ne.jp/kamane/20060225/p1
http://d.hatena.ne.jp/kamane/20060306/p1
http://d.hatena.ne.jp/kamane/20060310/p1
http://d.hatena.ne.jp/kamane/20060313/p1