触手について:触覚ダンス

マッツ・エック「アパートメント」、キリアン「ベラ・フィギュラ」、ダナ・カスパーセン&ウィリアム・フォーサイス「from a classical position」、エリザベット・コロネル監督の勅使河原三郎についてのドキュメンタリー。
 videodanceで、ばーっと久しぶりに俯瞰すると、フォーサイスと勅使河原三郎の空気ダンスとが、「触覚性」を提示していおり、それがゆえに、結果としての「質感」なり「強度」なりをもたらしている。フォーサイスの、バレエの動きを分析的に解体し、そうしたプラトン以来のw視覚主義では下位に置かれて来た触覚のレベルでの再構築をもって、感覚とおよびダンスシステムにおける階層秩序を転倒させ、かつ幾何学的な破線をもって、あらたな運動イメージのシステムを構築したその徹底ぶりは、先日の上演でも確認できたことだった。
 キリアンは以前、NDTI,II,IIIが一気に上演されたとき、数万円はたいて、失望感しかいただけなかったのだが、この「ベラ・フィギュラ」は案外すばらしかった。同じ作家のものでもむろん作品ごとに印象を変えるものだが、しかしキリアンのような安定した様式を持っていると思われる振付家のものでも、かく印象が変わるとは、その自身の「印象」という「表象」あるいは「体験」(…)のなんというか、一貫性の欠如に反省する。とはいえ、あの一連の上演は断片的な印象や記憶をどれだけ思い起こしても、やはり興趣ないものである。だから、上演の印象なりあるいは上演の鑑賞経験というものがどれだけ、その観察者の文脈に左右されるかということである。観察者にはある思いがあったりなかったり、観察の理論があったり、それが物語であったり、インタレスト=関心の状態があり、そのことによって、感情なり評価が左右される。つまりそれはまったくもって恣意的であるのだが、しかし主体と状況の文脈においてはある「必然性」がある。しかしその「必然性」もまた、経験の文脈と観察理論(あらゆる観察にそれぞれの「理論」、もうすこし正確にいえば、「フレーム」がある)によって、構築されている。そういう意味で、鑑賞ないし観察には、観察主体の経験・知覚レベルにおける偶発性というレベルが強く存在しているのであり、このことを踏まえないと、狭量なドグマティズムに陥ることもあるし、それはやはり不幸なことなのである。
 私は現在、末端において、ダンスを創作している。やりたい作業は刻々変わるし、とりわけ上演発表を終えると、とりあえずそれは区切りとして、もうそこへは戻れない。それは、上演を体験する前と体験したあとでは、前提が変わるという意味でである。もちろん反省し、あれがどうだったかとかいう点検をし、そして次に新しい経験をするために、作業をはじめるわけだが、その切っ掛けというか、フレームとなるような「ヴィジョン」が見いだせないと、鬱々する。場合によっては、深刻な症状が出ることもある。
 「ヴィジョン」ということは、視覚的なメタファーである。プラトンの洞窟の比喩や、光をめぐるさまざまなメタファーなり物語は、視覚主義であった。これは「直観」という語でも同様で、「観」すなわち「見る」ということが語源にある。intuitio。こうした視覚主義にも、問題があることはなんとなく察知していたが、はっきりと認知できなかった。
 つまり、私は自身の認識論的な態度における視覚主義と、うまく付き合えないままでいて、それがゆえにいろいろな不具合が生じていた。
 私は、たまたま、それこそ偶発的に、この見ることあるいは見えることと見えないこと、という問題と、付き合わされた。
http://d.hatena.ne.jp/kairiw/20050504/p1「私の眼球譚」、このエントリーは、続くといって続けていないので、続けなくてはならなかったのだが、いま続いた。
 この間、ずっと例のごとくもんもんとしていたのだが、この視覚主義および触覚という問題系に出会ったことで、さーっといろいろ「見えた」、いな、「分かった」。そう、理解は、「見える」という言葉でも、示されていて、たしかに「あ、理解した」という瞬間は、「光」が見えるようにも思われるのだが、むしろ点と点とがつながっていくようなことなのだ。
 以前も思い出して書いたかもしれないが。幸田露伴はこの「理解」について、実にうまいいいかたをしていた。冬に池の水面がある。池には杭がいくつか打ってある。池の水面が凍るとき、それは徐々に凍っていくのでなく、ある瞬間に、さーっと一気に凍る。分かったというのはそういうものだ、と。これはたぶん、私の引用間違いで、露伴先生はもっとうまいいいかたをしていた。これはたしかに、「一見」視覚的な映像である。しかし、実際に露伴が示そうとしているのは、水面が一気に凍るという運動のイメージである。そして視覚的な映像だけではなく、もっと他の感覚も呼び起こしているようないいかたである。
 まそれはともかく、私がなぜ踊りに楽しみをいだき、いまも踊ることそれ自体には、飽きないでいるのかのひとつの理由が、ようやく分かったのである。ここでいう踊りとは、触覚的な踊りのことだ。あるいは、踊りの盲目性である。
 つまり、これは自分が踊るとき、つねづね体験していることだが、踊っている私は、私の踊りを見ることができないのである。私の踊りを見るひとがいる場合、そのひとたちは、踊りを、視覚映像として見ている。しかし踊る私に、その視覚映像は与えられない。その視覚映像を想像しながら踊ることも当然あるが、踊るときに重要だと感じていたことが、その「見えない」ということである。
 これは書くときもそうだ。書くときにも、一寸先は闇である。見えている場合もあるが、実際に、書くとき、あるいは考えるときの、触手のありようは、ほとんど触覚的である。暗いこともあれば明るいこともある。つまり光の明度はあまり問題でなく、思考の触手は、まさぐっていくしかない。
 私がなぜimprovisationが好きというか、そこにこだわるのかも、それが触覚的な作業であるからだ。
あらかじめ視覚映像が与えられていて、それをなぞる踊りも、それはそれでいいと思うのだが、私は私の体験上、リアリティないしはアクチュアルと思われることは、この触覚的な作業なのである。
 見ることも、聞くことも、それが「触ること」に、なんらかの形で対応していないと、そもそも成立しないのではないだろうかと思う。
 この「触覚」については、これからも掘り下げていきたい。

しかしまえもっていっておかないといけないのは、触覚主義こそが真実の立場といいたいわけではない。
ただ視覚が感覚器官のなかで第一の地位を保つような考え方、他の感覚器官を劣位におくという感覚地図のヒエラルキ−は、地図として、不十分ということである。

 ハイデガーが手についていったとき、またゴダールが手について語るとき、やはりそれは触覚あるいは触手について指示しようとしている。あるいは大野一雄の手の踊りは、「触っている」。それは触手そのものであった。
 そうしてまた、触れてはならないという命法もある。たとえば聖なるものに触れてはならないという事態。あるいはキリストが手をかざしたとき…、奇跡は触れることにも強く関わっている。
 
 エウリピデスはたしか「アルケスティース」のなかで、「この懐かしい館を私は触れることができないから、私は立ち去らねばならない」とかきつけた。エウリピデスのその戯曲のリメイクであるハイナー・ミュラーの「画の描写」を上演しようと企画していたとき、私はなぜか知らないが、このフレーズに強く惹かれた。いまおもえば、それが「触れる」ことの問題を指示していたのである。