競争入札と「公共性」

 一連の報道を見ていると、なんでも入札価格が安いという理由で、多くの公共施設がシンドラー社に注文しているようだ。市場経済の法則上、価格競争は避けられないとしても、エレベーターなり建築物なりで、安全性より市場競争の方が優先されるとなると、これからも事故は起こりつづけるだろう。すくなくとも、安全性を二次的に扱うような価値観の形式にあるかぎり、事故が起きる確率は高くなるし、また事故が起きたあとでも、責任逃れをする傾向になってしまう。なぜならこのような価値観の形式にとって、事故などは、「万が一」の例外的な事態にすぎず、問題とはされないだろうからだ。したがって同様に、事故の「責任」なども、問題とはなっていない。(というか、先に「責任」ということから発想して考えるのなら、そもそも価格競争などを選択はしないだろうからだ。)
 かといって、これまでの談合による、価格の安定および市場の凍結とかいうのも困る。
 「適正な競争」というものがありえるのかどうか分からないのだが、とりあえず資本主義や現在の競争をよしとする人々(そのほとんどが勝ち組としての「先進国」内のコンフォルミスト=順応主義者)の価値観に準じていると思われる公共機関の在り方の問題だよ、やっぱり。だれのための、なんのための、建物なのか。
 ひとびとの生活を保護することが目的であるはずの公共サービスが、なんで「安い」からなどという理由で、チェックもせずに、むしろ率先して、安全性を度外視するのだろうか。
 「入札とは」で検索すると、当然このあたりは議論されていた。岩波新書「入札改革」という本では、現在の、価格を絶対視する「価格入札」制度から、政策的価値を判断基準として取り入れた「政策入札」の制度に変更したらどうかという提案を行っているようだ。
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0312/sin_k152.html
 ここでいう「政策的価値」が、私のいう「公共サービス」につながっているのは明らかであるが、さて、こうなると、「公共性」とはなにかという話にまた戻る。続く。
 
 入札情報サービスのサイトhttp://www.ppi.go.jp/