days 「美しいナショナリズム」と真なる絶望

そして、安倍政権発足。
哲学者の田島正樹さんが警鐘的エッセを書いておられます。http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/50594058.html

政治の細かい話をおっかけることは正確な判断をくだすために必要な、市民の義務なのだが、どうしても怠ってしまう。日本だけではないが、事態がどんどん閉塞していくことには反吐を投げかけ続けているつもりでも、それはやっぱ「こども身体」なのかw爆
 それでも、あの馬鹿みたいなタイトルの新書「美しい国へ」のなかで、著者である新総理は、イーストウッドの傑作「ミリオンダラーベイビー」を、内容を評価しつつも、ナショナリズムの必要性みたいなところに回収していた記述があった。立ち読みだったが、二度ほどその箇所を読んだ体験でいうと、あの壮絶な尊厳死と国家政策としてのナショナリズムとを連結させるどころか、安倍氏は前者を後者へと融解させるような書き方をしていた。
あの孤独なボクサーの個人における矜持とアイルランドナショナリズムとはたしかにあの映画のなかで描かれていた。しかし図は、あくまで個人のボクサーの個人的な人生への思いであり、あるいはコーチとボクサーとの愛であった。アイルランドという民族意識はあくまで背景、地であった。だが著者は図と地とを故意に反転させている。この倒錯ぶりは、いかにも狂気である。いや狂気などというと文化の衝動あるいは人間の原型のひとつとしての「狂気」に対して、無礼である。この倒錯ぶりは、狂気ではなく、ただに姑息な政治的な戦略にすぎない。
 民族意識の問題については非常に厄介な問題なのでこれまた言いたくもないのだが、私は民族意識はそれが抵抗力としてある限りは、重要でありかつ必要だと思っている。しかしそこには抵抗される対象がある。たとえば圧倒的なグローバリゼーション、あるいは本質的には同じことだが植民地主義帝国主義といったよりメジャーな勢力に抵抗するときのひとつの手がかりとしての、という意味においてである。かつての言葉でいえば、「列強」といっていい。
 むろんこれはある理念的な方向性を指していっているわけで、現実の歴史においては、民族意識は泥沼の民族紛争をもたらしもしたし、ナチスホロコーストに最も顕著に最悪な形で現れるがごとく、人種差別主義をもらしてもいる。
 しかし問題は、民族意識や、あるいは郷土愛そのものにあるわけではないと私は考える。その方向性directionが問題なのだ。つまり、なんに対しての、なんに向かっての民族なのか、ということだ。
 イーストウッドの映画はアイルランド民族万歳!などと結語したわけではない。はっきりいって、そんな馬鹿な映画ではない。もっと強烈でもっと悲しい、もっと深い淵にある絶望と愛を描いている。アイルランド民族の問題はほとんどかすれているし、印象的な小道具ではあるものの、実際にはボクサーを救済はしない。まったくの無力といっていい。慰めになっていたかどうかも怪しいところだ。彼にあのボクサーが死ぬ間際にアイルランド人としての誇りを持ちながら死んで行ったとしても、そこは描かれていないから、その問題に焦点を合わせることはできない。
たしかにコーチであるフランクはナショナリストである。しかしそんなに押しつけがましくはない。ボクサーにとってもそれはただの衣装であり、重要なのは試合に勝つことだけだ。そして、フランクが最後に語の秘密を語るときだって、ボクサーはたしか微笑するが、それは気晴らし的な機能以外のことを果たしていない。つまり圧倒的な絶望を前に、民族意識などは結局は無力である。ラストでひとりになったフランクにしても、生きているのか死んでいるか、自死を選んだのかも明示されないが、しかしすくなくとも、深い喪失に浸るしかないフランクの心理を暗示している。そこには、一切、民族意識は関与していない。
 かの民族意識を宗教なりイデオロギーなりに置き換えてもいい。つまり圧倒的な絶望の前には、実際、ひとは無力なのだ。老いたフランクの無力さは、たとえばジムでのショットでの、顔を闇に消す描写でも示されている。精悍なフランクの顔にはすでに斜線が入っている。
 イーストウッドは「ミスティックリバー」でも「トゥルークライム」で(すら)も「許されざる者」でも「マディソン郡の橋」でも、ほとんど無力な人物が、努力するも、ある時はなにか肯定的なことをもたらすがある時はなにももたらさないようなそんな悲しい淡いを描いている。
 主題はあくまで絶望と希望であり、それはすでに国家も民族も公式のモラルもイデオロギーも無力だからである。
私は全てのイーストウッド映画を見たわけではもちろんないが、イーストウッドの映画のなかでももっとも深い絶望の映画である「ミリオンダラーベイビー」で描かれた人間の行為と感情と関係のドラマを、たんなるナショナリズム=国民=民族意識の発揚として語ること、いわんやそのナショナリズムすらたんなる国家政策として語っていることは、断言するが、卑劣であると思う。しかも著者は、その新書でタイトルにあるがごときステレオタイプな論説を展開、いや「展開」というか、たんにタイトルの同語反復を延々引き延ばして書いているだけだろう。
 あの映画で描かれる人間の姿をたんなる政策の例証として使用することが、卑劣なのだ。

そもそもなんに向かって「美しく」なろうというのか?アメリカに対して?「世界」に対して?「正義」を持ち出すアメリカからもっと愛されるために、美しくなりたいのか?そもそも国家が「美しい」とはどういうことか?政治が美しいとでもいいたいのだろうか?まさにそうなのだろうが。
 「美」という、一般的には政治からは自律したと考えられている価値基準を持ち出して、見た目を「美しく」誤摩化すという、これまで使い古されて来た国家戦略を再び使用することは陳腐としかいうほかない。
 
 イーストウッドが描いた人間の「美」を矮小化し、あたかもあのボクサーを日本国家の象徴として読み替えなくとも、あえていえば日本はすでに十分美しいし、矜持などいくらでも、日本の歴史と言語と文化とを学べば、おのずと持てるはずだし、実際には持っているはずだ。私がいいたいことは、いま現在、日本国家が美しくなるべき必然的な理由などないということである。
 だが「B層」などという「愚民」を勝手に捏造し(「B層」と名指される人間は存在しない)、キャンペーンを張る。キャンペーンが好きなひとびともいるようで、それがゆえ政権は支持されるともいわれるが、実際には、社会的政治的経済的力を持った、人数としては少数の者(支配層というやつだ)が、支持しているだけのこと。「愚民」は作られるものであり、あらかじめあるものではないし、なによりもそれは単なるラベルにすぎない。そんなラベルにすぎないものを実体視して、あたかもそれが現実にいるかのごとく想定し、そうしてひとびとを操作する。それが日本でいう政治である。しかし政治とは、異なる力が折衝することをいうのではないか。まったく、キャンペーンに乗っかるマスメディアは絶滅するがいい。

 とにかく百姓一揆の弾圧以来、刀狩り以来、あるいは江戸期の政治的支配技術のおかげで、日本には「市民」は存在せず、また「抵抗」もことごとく「悪しきこと」として、抹消される。実際、その封建的とすらいえる統治テクノロジーは、実に強固で、それはほとんど習慣化され、自明のこと、あるいは日本の特性のように語れ、また根付いているのはたしかである。クーデタだけが繰り返され、レボリューションを体験したことのない国だからだ。

 こういう具合に批判すると、必ず、じゃあ代替案はあるのかというせっかちなひともいる。
代替案なんていくらもあるだろう。とりあえずタイトルからいえば。「賢い国へ」「豊かな国へ」「強い国へ」「正しい国へ」「世界の国へ」…
芸術家であればもっと洒落込んだタイトルをつけるだろうが、それは所詮は額縁の問題にすぎない。リアルポリティックスにおいて美は第一次的な問題ではない。問題は、ひとびとにどれだけ幸福を分配することができるかとか、ひとびとの生活を最低限保証したりするような、徹頭徹尾具体的な現実に関わることではないか。そうした現実に関与するに、美は暗示する力しか持つことはできない。あるいは美を追求する芸術という領域が、現実の世界の模倣でありながら世界を脅かすような力を持つことがあるとしても、それは政治家によってではなく芸術家によってなされることだ。別に分業制を推奨したいわけではないが、私はごく当たり前のことを言っているにすぎない。
 というかひとびとを侮蔑するのもたいがいにしろ。わたしたちはやはりもっと怒るべきである。
 
よりによって「美しい国へ」とは、考えれば考えるほど、ナチスや旧日本帝国の陳腐な反復にすぎないロジックが気持ち悪いし、なんでそんな耽美趣味なのかと思う。それはひとつには美の領域に関して著者が無知だからである。それはイーストウッドをあのように読み替えるその行為をもたらす感性のレベルで知ることができる。
 
美しい国へ」で持ち出されるべき映画が「インディペンデンスデイ」だったら、話は変わっていただろうし、すくなくとも例証という手続きを問題化することはなかっただろう。

 その場合でも、新書としては、タイトル「美しい国へ」は川端康成の「美しい日本の私」を彷彿とさせる。川端にとっては美は絶対的な理念であったのかもしれず、それがゆえ川端は自死したのかもしれない。三島由紀夫しかり。この新書の著者は、はたして美に対してそこまで賭けることができているかと問うと、ほとんど失笑するしかないほどの陳腐なものだ。むしろこの「美」は大江健三郎の「あいまいな日本の私」以降のものなのであって、それがゆえ「あいまいな美」でしかない。だがそんな「あいまいに美しくなりたい」人物が日本を代表してしまった。