医療・近代・身体

バッチフラワーのサイト*1を見たら、「マイナス感情」の除去とある。スピノザの心理学を連想する。
バッチフラワーというのは、ホメオパシーの一種で、要は薬草エキスである。
たしかに効果はあって、リラックスしてます。
 ホメオパシーは18世紀末より19世紀初頭にかけてドイツのハーネマンという医師によって始められた療法で、人体の自然治癒力を活かすことで症状を治癒するもの。詳しくはサイトを*2
近代医学の過度な科学主義や暗い歴史などについては常識となっているかとも思うが、制度的にはいまなお主流派であるがゆえ、案外、いまでも近代科学主義イデオロギーは広く共有されているのだろう。
 私はといえば、20歳前後位のときから、なにも対処もせず適当に喋るだけで診察費を請求するヤブ医者に何人にもあったせいで、できるかぎり医者には頼らないようにしてきた。会社で社会保険に入っているから、もったいないといえばもったいないのだが、よくわからないケミカル物質に浸されることはごめんである。
 移植手術をしたとき、術後、拒絶反応をふせぐために、身体の免疫力をさげる薬を大量に飲まされたことがある。副作用は実にひどく、死ぬかと思った。顔はムーンフェイスというやつで、膨れ上がり、体は自分の体でないようによくわからないものすごい違和感を常に感じるようになった。移植された角膜を、身体はその免疫力により、押し出そうとする。そうなると、また角膜移植をしなければならない。手術が間に合わなければ失明だろう。だから、拒絶反応を起こさないためにそうした薬を投与することは理論としては分かるのだが、身体で知覚される症状があまりにきつく、ひどい。だから、もしこれらの薬を飲むことを勝手に止めることで、さらにひどい症状が出たとしても、これ以上、よくわからない薬物を飲み続けることによる身体の異常の進展よりもましだろうと観念し、医学を無視して勝手に薬を飲むのを止めた。後に、医者よりそれはやったらだめだと忠告されたが、これは私の判断で、私の身体に権利を持っているのは法的にも私であろうし、自己責任においてその結果は引き受ける覚悟のうえであった。
 さて勝手に薬物投与を中止したあと、身体の膨張症状は日に日におさまっていったものの、それまでの身体の常態に収まるまで、およそ一年以上かかった。
 手術より10年ほど経った今、体は健全となっている。
こういったからといって、私は医学を否定したいわけでもない。近代医学の理論にはもちろん一定程度の敬服もしているし、納得もするし、なにより、外科手術に関しては、人類の英知の成果のひとつであるとも考えている。
 だが、化学療法にはやはりリスクがあるし、人体がそれまで摂取することのなかった物質を摂取することでなんらかの副作用が起きることに対し、「それは副作用ですよ。」とあっさりいわれても、「副作用」のうちには当然、致死も含まれるわけで、死んだら元も子もない。
 後に医者の友人に聞いたら、やはり医学というのは完全ではないし、なにより病そのもの、あるいは人体の解剖学的な仕組みは把握されているとしても、ある症状がなぜ発生するのか、いかに発生するのかについては、未知である場合がほとんどだという。
 また繰り返すが、このことを理由に、医学を責めるわけにはいかない。そもそも、科学というのはそういう暫定的なものである。それがゆえ、少しずつ、技術の進展にともない、様々なことが解明されていても、「完全な技術」というのはありえないし、むしろそうした「絶対なる完全」のごときものを盲信することがあったとすれば、それはむしろ医学の進化を妨げるものであろう。こうした恣意性は、むしろ科学ができるだけ客観的であろうとする科学倫理の証でもある。
 こうした自身の技術の相対性あるいは恣意性を前提とせずに、「絶対」に医学は正しいとか、医学はすばらしいと手放しで賛同して、批判的な疑いを持たないのは、たんなる迷信である。
 このことは逆に、近代医学は絶対に間違っているとする考え方も、同様、迷信であると私は考える。

こうしたことを前提としたうえで、ホメオパシーそのものはまだ試していないけれど、なかなかよさげな、ひとつの療法であると思える。前記したようにホメオパシーの一種であるバッチフラワーを最近、飲んでいるが、効果はたしかにある。たしかに自分の身体感覚が、意志とは独立して変容していくことは怖い気もするのだが、この感覚って、思い出してみたら、はじめて酒を飲みだしたころやタバコを吸い始めたとき、あるいは新しいスポーツをはじめたときなどの感覚である。

 あの術後の、2cmほどもあるカプセルをはじめ、5種類くらいの錠剤を、一日三回、15粒ほど毎日飲んでいたときの身体の変容感覚と比べたら、なんとも牧歌的で、いいものである。
 
 もっとも、健康維持には、適切な食事、適切な身体運動、そして適切な思考が前提とされるべきである。ロマン主義的心性にそまったちょい悪アイロニストは、こうしたプラトニズム的な考え方を嘲笑するだろうけれども。
 ただこうした健全であるということが過度な命令となり、いわばプラトニズム(ここでいうプラトニズムとは心身ともに健康であれという思想の起源のひとつがプラトンにあるからである。)の原理主義化が推進されると、例の「健康ファシズム」へと変容してしまう。
 こうした原理主義に陥らないですむ方法はあるだろうか。

ホメオパシーに戻れば、その理論は「同種療法」あるいは「類似療法」というもので、「症状を起こすものは、その症状を取り去るものになる」という「同種の法則」が根拠になっているという。
 この同種法則に、「症状を起こすものを非常に薄めて使うことにより、体に悪影響を与えることなく、症状だけを取っていくものとなる」という「超微量の法則」とを加えて、今日でいう、ひとにやさしい、自然にやさしい療法を開発したものである。
 「症状を抑圧するのではなく、症状を出し切れるように後押しする」という方法は、ようは、人体の自然治癒力を活かした方法である。
 ちなみにルイス・キャロルサリンジャーも採用しているという。ただこのページには「信奉者」とある。いや別に「信奉」することがただちに間違っているわけではないが、こうした書き方が、まだ未知の人にとってはなんとなく近寄りがたい印象やあらぬ誤解を抱く要因にもなるではないかと思う。

 日本ではまだ一部でしか知られていないので、またニューエイジ系の新興宗教まがいの療法かという受容するひともあるかもしれないが、こないだ訪れたローマには何軒もお店があり、ごくヨーロッパではいまはごく一般的な認知をされているようだ。

 あ、そういえばアルトー研究者のkくんが、アルトーとなにかの療法について話していたことがあったが、もしかして、このホメオパシーのことではないだろうか。
 というのも、19世紀末にフランスにガシェ博士というのがいて、ゴッホセザンヌらにホメオパシーを施療したという。アルトーが画家たちを通じてこの療法のことを知っていたことは十分ありえる。
 もっとも、ホメオパシーのキャリアにとって、アルトーを宣伝として使うことはできないだろうけどw


 医学といえば、社会のなかに組み込まれた制度的な側面も重要で、というか、ここがもっとも危険で、医学そのものを脅かすものである。
 ミシュル・フーコーもまさにこうした医学制度と権力について研究していた。知識と権力という主題系も、人文系だと、まーそーねーという具合だが、医学ともなるとモロである。たしかフーコーは医者の家に生まれたはずで、医者になれとさんざん親からいわれたこともあったろう。結果として、親の欲望は裏切られ(?)、近代医学を根底から批判的に捉え直す仕事を若きフーコーは開始し、のちには、医学にとどまらず、人文社会生命に関わる科学全般の成り立ちを描き、そうした科学的知識が、制度と権力を支えていることを徹底的に実証していった。
 ヴェーヌの本にもフーコーの思い出が掲載されているが、フーコーとヴェーヌは互いにコラボレーションしていて、真理と権力と主体化という晩年のフーコーの主題系について、フーコーとは微妙に異なる視点で、触れられており、その意味でも、「歴史と日常」は興味深い本である。


 医学制度の問題といえば、かの薬害エイズ問題が思い出される。安倍医師ってのがいたなと思って検索すると、大西巨人のご子息の大西赤人さんのコラムがあった。*3
 このコラムによると、イギリスはサッチャー時代に医療費抑制政策がとられたおかげで、予約待ちが常態となり、入院予約を待っている間になくなるひとも多いという。また、2001年には肺癌患者の20%が入院待機中に症状が進み(当然である)、手術不能になったという。
 医療ないし医療制度のはらむ問題も、あらためてきちんと考えないといけない。(続く)