days  言葉(「教科」再編):「アンチ・オイディプス」文庫化を機に

新宿にギリヤーク尼崎さんを見に行く。これまで噂だけで見たことがなかった。「西新宿三井ビル」にいってしまう。「西新宿」の「三井ビル」だった。紛らわしい名前。だいぶん遅れて着いてしまったのだが、まだやってらして、結局、なんと2時間ほどもやってらした。その力に恐れ入ります。
邦正美さんに学んだというギリヤークさんのフォルムや手指の踊りに、その痕跡を見た気がした。大野一雄先生とは路上と劇場との違いこそあれ、魂の親戚であるには違いない。しかしとてもお元気で、「鬼の舞踊」と表されたのも納得。文字通り裸一貫。小道具は多数あるけれども。最後の走りと水被りは爽快だった。場所全体にとても穏やかな時間が流れていた。見ることができてよかった。
 78歳。あと2年で街頭40周年だそうです。お目が悪いらしく、手術をされるらしい。Tさんがいた。
吉祥寺にaの上司のnさん属するジェネシストリビュートバンドを観に行く。ジェネシスファンにはたまらないだろう。技術がすごい。こちらはなんと上演時間は3時間半。きくと、プログレ系のライブでは普通らしい。ジェネシスを知らない私はさすがに疲れましたがw
 家路にむかう途中、本屋でなんと、ドゥルーズ=ガタリの「アンチオイディプス」の文庫新刊(河出文庫)を見て驚愕。即、上下巻購入。しかも新訳である。ドゥルーズは私がこれまで読んで来た本のなかで最も多く手に取った哲学者のひとりである。現代思想に関心があるひとで知らないひとはいないだろうが、一般には知られていない。
 もっとも、哲学や思想自体が、日本では一般的には普及していない。その理由もやはり日本社会の問題であり、直接的には教育制度の問題があるが、なにより「思想」全般を、「危険思想」と置き違える国家の意図がある。ついで、「西洋」への態度および感情がある。このあたりの「国民感情」は再三書いて来たように、江戸時代以来のものだとことあるごとに思い知らされる。
 哲学や思想は、世界を根本から考え直すことであるが、日本の支配層はそれを過剰に恐れているのではないかと思われるほど、教育制度のなかでそうした作業を伝えようとしない。「国語」あるいは「現代国語」のなかである程度、批評を読まされるものの、それらの批評に前提とされている事柄、それを「教養」といっていいのかもしれないが、しかし「教養」という語が帯びる意味合いの偏りを考えるとやはりもう使えない気もする。
 広く「言葉」といっていいのだが、そうした「言葉」の歴史を、日本限定でなく、アジア限定でなく、またヨーロッパ限定でなく、捉えて行くようなことがしっかり伝えて行くことができれば、もう少し日本はよくなるんじゃないかとか、しつこく思う。
 ここはすごく重要な事柄なので、現在構想中の企画(舞台や芸術とは関係がないもの。聞くと驚いて笑うだろうw)でもっと展開していきたいところである。
 まだ固まった考えではないが(というかこの「固まり」をよしとするのもどうかと思う)、この「言葉」という観点からすると、現在問題とされている無気力やアパシーやひきこもりといった一連の「こころ」の問題はすべてこの「言葉」の問題なのであり、結論を先にいうと、それは支配層がこれまでさんざん人々から「言葉」を取り上げてきたせいである(こういうとまた心情小ファシストは「ひとのせいにするな」とwいうのだろうが。実際そのように言われたことがあるw)。
 ここから、「言葉」を取り戻すという作業になるのだろうが、しかしこれも「言葉」を何とするかという話になる。
さしあたっては「世界思想史」ということでいいと思うのだが、それを小学校から教えていくことが必要だろうと思う。
 そのためには、すでに方々で議論されていることだけれども、「国語」という呼称を撤廃しなくてはならない。せめて「日本語」にすべきである。最終的には、諸言語の文法や規則の学習のみでなく、「言語」が人間にとってなんであるかを考える「哲学」あるいは「思想」、そして「言語」の可能性を模索する芸術である「文学」を包含するような意味での「言語」あるいは「言葉」というより総合的な教科カテゴリーを導入する。
 私が受けた時代の教育といまとは状況が変わっているのだろう。しかしいまの教科書を覗いたり、報道などを耳にする限りでは、改善されているところも多少はあるが、ほとんど変わっていない。「教科の一覧」で検索すればそれは確認できる。
 まず、この「教科」の分類を再編しなくてはならない。もっとも、分類などというものはつねに恣意的であるのだが。
おおざっぱには、
・人文:言語:日本語、思想(哲学)、文学(言語芸術)、英語などの諸言語
・算数
・自然
・社会
という具合である。

現行の教科でやはり異様なのは、哲学思想が、「社会」の「公民」(この語は実に使用価値がない。)に分類されていること、そして「倫理」に特化されていることである。
 こんな教科分類を誰がしたのかも調査する必要があるが、この分類が、多くの混乱を招いていることは、明らかである。すくなくとも私はその問題を体験した。
 
 私は現在、大学と全く関係がなく、あるとすれば書籍を通じて、大学で行われている研究を学習しているにすぎないので、このエントリーを読む大学に関わるひとには、アカデミズムの最先端を追求するのはもちろんどんどん行われるべきだけれども、しかし子どもたち、つまり未来の世代になにを伝えたらよいのかを、教育制度が抱える様々な具体的な問題のなかで、考え、実践していってほしいと思う。
 

ドゥルーズの話だったが、つい問題意識に振り回されてしまった。アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫) アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)
そう、ドゥルーズは好きで、その本もほとんど持っているのだが、実はこの「アンチ・オイディプス」と「千のプラトー」だけ持っていない。その理由は「差異と反復」がちょうど学生のときに翻訳が出たせいで、タイミングを逃してつまり出会い損ねて以来、ずっとドゥルーズガタリのこの二冊はなんとなく後回しになってきたからである。だから、いまもまだ読んではいない。それになにより「アンチ・オイディプス」は精神分析とりわけラカンを踏まえないことには読めないと思ったからだ。それで気付けば不思議なまでに10年以上も読まないままで来たわけだったが、今回の新訳文庫化で、当たり前だが、買わざるをえない。
 さっそく第一章の「欲望機械」をざっーと読むと、やはりとてつもなく面白く、同時に、やっぱりこれまであえて読まなくてよかったかもしれないと思った。
 いやまあこうした個人的な感慨などどうでもよくって、この時代を画した著作が、文庫で読めるという幸福はなににも代え難い。アメリカのプラグマティズムとは異なる独自のプラグマティズムスピノザニーチェプラグマティズム)に貫かれたこの本が、より実用的な文庫になったということは、この書物の意図でもあっただろう。文庫だと、旅行でも散歩でも、外に持っていけるからだ。
 ひとつだけ、難をいうと、注が下巻にまとめて掲載されていることだ。上巻の分の注は、やはり上巻末に掲載されないと、いちいち下巻を開かなくてはならなくて少々面倒である。
 それにしても、これからどこまで文庫化が進むか分からないが、もうこうなると、徐々にドゥルーズ全集が文庫になっていくということか。
まそういうオタッキーな喜びはさておき、この書物を使わなくてはならない。