毒をもって毒を制す(いわゆる「いじめ」問題に寄せて)

先日のホメオパシーについてのエントリーhttp://d.hatena.ne.jp/kairiw/20061007で、
id:amalecさんより専門家の視点からアルトーホメオパシーとの関連について非常に有益なコメントをいただいた。あらためて御礼もうしあげます。サンキュ。
 で、これまた思いつきなのだが、そしてアルトーと関係ないのだが、ブレヒトの「亡命者の対話」を読んでいて、教育論があった。ブレヒトは「教育演劇」と銘打ったから、その親理論としての教育理論はさぞや重要だろうと思われる。しかしそこにあるのは、「良心的な教育家」を悲しませるか憤慨させるものである。
 もう何年も日本の教育問題の根本問題ととしてみなされているいじめ問題のような問題がそこでは例としてあげられている。パラフレーズというか、いまの日本で置き換えていうと、いじめられたものを教師はびんたすべきだといっているのだ。またもやせっかちなドグマティストはこんなこというと、けしからん!そんなことを書いているブレヒトなど、読んじゃいかん!というだろう。こっちもせっかちになるとなると、ブレヒトを禁書扱いするということは、つまりナチスと同じ行動をとるということだといいたい。
 まそれはともかく、ブレヒトのいわんとすることはいろいろ深いのだが、いってみれば「ホメオパシー」に近い。「ホメオパシー」の原理をわかりやすくいうと、「毒をもって毒を制す」である。
 つまり、いじめは毒であるが、さけられない毒であるがゆえ、むしろ大いにいじめを推奨して、鍛えなくてはならない、というのがブレヒトの主眼である。
 これは実に正しいと思う。
最近もまたいじめを苦にして死んだ小学生がいる。だがそのひとは大人であっても自殺するだろう。
 教育問題については、こちらもかつて一時教育学を専攻しようかというほどであったから、いいたいことは尽きないのだが、まず、今日の「いじめ撲滅運動」はまったくの無意味な政策である。
 どこから話しをすすめればいいのか迷うけれども、こどもの社会のなかで行われることは大人社会のなかで行われていることと連動している。
 「いじめ」は日本の大人社会でもいつでもどこでも行われるものだし、また日本に限らない。
 スケープゴート論とか「第三項排除」論(あれはなんだったのか)とかを持ち出すまでもなく、歴史や人類学の本を開けば、いじめが戦争と同様、人類の歴史とともにあり、これからも当分あるだろうし、おそらくはなくなることはありえないことはすぐ分かることだ。
 最近の事件(福岡だったか)でももみ消し云々とかなるが、裁判などを考えるともみ消しの方法をとることはありである。いやこれはもみ消しがいいといっているのではない。話しはこうなるだろうという流れの話しである。
 まず「いじめを完全になくす」などというスローガンはまったくのナンセンスであるということ。
なくしたって、今回のように、より隠微になるだけだし、学校はこうしてもみ消しに走るだけだということ。
つまりいじめがなくなることは集団の力学からいってありえない。ありえるとすれば、資本主義体制がなにか理想的な体制に変わったあとだ。しかしそれはほとんど賭けのようなもので、いまだ実現はほとんど不可能である。
 もし自分の子供を「いじめ」に会わせたくないのなら、まず学校に通わせないこと。そして、成人後も、社会に出さないことだ。
 陰湿な「いじめ」に対していかに抵抗できるかが、つまりは生きていくことなのだから、それを教えないから、子供らはすぐ自殺を選んでいるのだと思う。
 自殺する前に、まず考えることに耐えるべきだ。それから、そのいじめとどのように戦っていくかを考え、対処していくしかない。それができなければ、やはり生きていくことができないのだ、どのみち。

 かつていじめもし、いじめられもした私がこのような考えを持ったのは10代のころだったが、それが私にとっては生きることへの洞察であったし、いまも原則として変わっていない。
 ただ、この論理をいうと、いろいろ反論がありそうなのと、他にいうひとがあまりいなかったので、これまで書くことはなかったのだが、ブレヒトという強い味方を発見したので、書こうかと思った次第である。

しかしこうしてみると、いじめを例にとれば、生きていくことが、そのまま抵抗であるということが、ものすごく腑に落ちる。
 「いじめ完全撲滅運動」はそうした人間の力を奪いかねないし、またそれゆえそれはただの偽善的なドグマティズムにすぎない。「善」の理念を代行するファシストである。
 まあ社会工学的には少年法の改正(改悪?)などをふくめていろいろあるだろうが、かりそめにであれいじめの全責任を担任教師になするつけることはあってはならない。むしろ、いじめられたものあるいはその親は、いじめたものおよびその親をせめるのが常識である。というか、むかしはそうだったし、いまでも良識あるところではそうなのだろうが。大体がたかだかの施設にすぎない学校になにができるというのだろう。教師ごときになにかを求めることが間違いである。
 また、「いじめ」による自殺はたしかに「殺人」であるが、直接の犯人は、自殺した本人であることを忘れてもならないだろう。
 「いじめ」は要は多数派による圧力であり暴力である。この暴力に対抗する手段はいくつかあるが、ガス・ヴァン・サントの映画「エレファント」というかその映画の題材であるコロンバイン高校事件もまた「いじめ」に関する事件でもあった。
http://d.hatena.ne.jp/kairiw/20061005
つまり、暴力に対抗する対抗暴力としてのテロリズムというのもまたひとつの手段である。それが「正しい」かどうかは別として。
 この種の話しは、理念のレベルでなく、事実性あるいは「現実」のレベルの話しである。

 周りに学校に通うものがいないので、現在の実体は知れないけれど、報道などを見るにつけ、まったくどんどん気持ち悪いものになっている。
 そう、これは午前と午後の報道のことでもあるのだが、以前よりワイドショーのモラルイデオロギーが困ったものだと思っていたが、10年以上経っても、なにも進化していない。文字通りの馬鹿である。死んで欲しい。
 インターネットがこれからますます進化していくことで、テレビの価値は相対的に確実に下がるが、それに伴い、あの種のイデオロギー押し付け機関や、それを遂行することを専門とする「イデオロギータレント」w?などもはやく絶滅するがいい。