days マイナス作業
http://d.hatena.ne.jp/kairiw/20061010#p2で情報を掲載したDA・Mの中島さんの公演を見にいく。友人だからひいきめに見ているかもしれないけど、とりわけ前半は面白かった。どうやってチャンバラするのだろうと期待していたのだが、あいにくチャンバラは見ることができなかった。
adは私への批判と同じ批判、つまりつめこみすぎじゃないかという批判をしていた。もっともだととも思うけれど、とりあえず自分事としては、自分の作業を一応は正当化しておきたいのでいうと、なぜ詰め込みすぎが悪いのかは、批判としては分かりつつも、本当にそれがまずいといえる根拠がなんなのかはまだ私には不明である。
たとえばドゥルーズはカルメロ・ベーネのテキストの取り扱いの手法における削除に注目し、そこから「マイナス宣言」という面白い論を書いた。
ベーネのCDはイタリアで購入したのだが、そのうちのひとつが、「マンフレッド」だった。解説書には邦訳もあるドゥルーズの文も収められている。
バイロンの詩篇「マンフレッド」と、シューマンがそれを音楽したものを使用し、イタリア語なので正確にはわからないが、さらにベーネは独自の編集を加えていると思われる。
さて、CDなのでどんなセノグラフィーかは分からないのだが、これがとてもいいのである。というか、かなりグッと来る。帰国してから何度も聞きなおしている。
さてベーネを出したのは、「マイナス」という手法についてであった。ちなみに私はこのドゥルーズのロジックを、大野一雄の踊りにも応用できるとも思える。
カルメロ・ベーネと大野一雄はむろん違うのだが、この「捨てていく」いわば引き算という方向性において共通したものがあると思われる。
さて、この引き算手法あるいはマイナス手法は、DA・Mに客演したことのある私には分かるのだが、稽古においてはさんざん引き算をしている。今回の中島さんの稽古も、4ヶ月間、出しては捨て、の反復だったようだ。
なのになぜ、上演において、「マイナス」の作業が立ち現れないのか、あるいはそのマイナス体験を感知しない観客の認識が成立するのだろうか。
これに対して、たんに、どれだけ稽古でマイナス作業したとしても、上演でつめこんだら、マイナス作業が「否定」されるんじゃないのといえば、おしまいなのであるが、はたしてそこで片付けていいのだろうか。
これはむろん、私の作業に対する批判をどのように批判的に受容すればよいのかということでもあるから、こうして書いている。
たしかにこれまで私はこの「マイナス作業」に対して、それをリハーサルでは実践しながらも(それについては私が確証するしかないのでこういう)、上演化においてはむしろそれらを「否定」し、過剰に「プラス」してきたのかもしれないし、そのように受け取る観客もいたことだろう。
むろん上演にあたっての選択判断は、ある過酷な状況のなかでやるのがつねであるのと、また「マイナス」という作業理念は採用しながらもそれを最優先しているわけでもなかったから、論理の必然としてそうなってきたのかもしれない。
もっとも、この「マイナス」という理念がはたしてどこまで肯定的な価値を持っているのかについては、もちろんその理念をどう考えるかによる。
以前、mrくんがいった「経済性」とか、あるいは私の言い方での「簡素さ」ということはこの「マイナス」理念のことと近しいところにあったのかもしれない。
イタリアツアー体験について、今度会議があるので、その準備を現在しているのだが、それと平行して、今後の私の作業のプログラムを組んでいる。
それは自分の関心を確認するという作業なのだが、最近は予定をあまりいれないようにして、じっくり検討していきたいと思い、いろいろ日々、ひとりでああでもないこうでもないと模索している。
自分の「関心」とはつまり「やりたいこと」なのだが、あるいはそれは自分の人生の方向性をどうするか、いわば人生をどのように演出していくかということを問いただす鍵である。
「マイナス」ということに戻ると、はたして「マイナス」という理念と私の性向(それがあらかじめあるのかどうかもまた問題ではあるのだが)が相性がいいのか、それとも「プラス」という理念をあらたに立ち上げることができるのかどうか。
ことはいかに選択するかということだから、これは一般化してもしょうがないのだが、さりとて一般化しないことには整理がつかない。
実はこうした問題はすでに10年前より発生していたことで、もちろん私だけに限ることでもないだろう。世の中には、こういう、いわば前提的なところで右往左往せずに、ちゃっちゃっとやっていけるひともあるのかもしれないが、あいにくその才能は私にはなさそうだ。
ま、そうして自分を限定づけるのも、またどうかとは思うのだが。
こうしてあいも変わらず、悪循環しているのかもしれず、またふっと否定的な想念にあいかわらず襲われつづけているけれど、日々は現在穏やかである。バッチフラワーのおかげかもしれない。
昨日は待ち合わせの前に、メルヴィルの「ビリーバッド」とカポーティの「冷血」を買った。大西巨人の文庫が書店に見つからず、ああ買っときゃよかったと思う。