days ゲーテ→露伴→フロイト

ひとと会うことが最近少し頻繁だったのと、時間があれば読書していたら、エントリー化するネタが増えすぎて何も書けない。
 とくに、ひとと会うこと、飲みながらであれ飲まずながらであれ、話すことは、なんというか、出来事としての情報量が多いので、それをまた反省的に記述していくとなると、ちょっとばかし気が遠くなる。
 とりわけイタリアツアー報告会議ではさまざまな事が話された。しかし、それでもタイムスケジュール的にはきつきつで、議論は消化不良であった。パチンコ業界の市場規模が29兆円とは…。
 ともあれ、この夜と、マッシモ送別会をもって、無事終了。みなさま、おつかれさまでした。
 ポーランドはイタリア語ではポローニャ。

ルフィニから、トンマーゾ・ランドルフィと、ベーネのピノッキオについて教示してもらう。ランドルフィについては翻訳で日本でも、「カフカの父親」と「月ノ石」が出ている。「ピノッキオの真実」についていろいろ興味深く聞くも、帰宅後ネット検索しても、日本語文献ではあまり見つからない。まあ話しとしては「グリム童話の真実」みたいな話しで、説話化される以前の「史実」としてのピノキオの話しだった。

 野口武彦「近代日本の詩と史実」を読む。とりわけ露伴と「考証」についての話は面白し。「皿」と「血」(文題は後で)。あと、鴎外、荷風、馬琴と小説形式論、大岡昇平など。
 この本に至った経緯は、ゲーテ露伴とにおける「客観主義的文体」という着目による。「ヴィルヘルムマイスター」や「親和力」などでは、小説に挿入される考察文が、ゲーテの魅力のひとつであるのだが、露伴においても、「考証文」とでもいうべき文体様式があり、両者は来歴こそ違え、思考との形式的な関係において類似している。もっとも、露伴ボルヘスに、より近いのだが。
 漱石と同年の露伴が、若い時に漢学を学習したことは夙に知られているし、露伴を紐解けば、その圧倒的な中国と日本の古典についての知識があるのは知れる。かつて露伴に夢中になっていたころ、なにかの本で、露伴ニーチェなどを若いとき、ちょっとだけ読んでいたという記述があったように覚えている。
 むろん、こんな話しは「考証」の倫理にもとる、いたずらな記憶に頼ったものでしかないのだが、それにしても、ゲーテを読んでいると、その説教くささあるいは道学者臭さも、露伴に似ているように感じられる。
 それで、ふと随想をはじめたら、露伴は鴎外と親交もあり、案外、鴎外による翻訳などは眼を通していたのではないかと思ったのだった。
 露伴の蔵書は、柳田泉の記録のみを残して、神保町の古書の海のなかへと消えていったのだったが、そのなかにも、案外、翻訳ものがあったかもしれない。
 …
 とかいうことで、結局、この論点はあやふやすぎるので、エントリー化まで思い切ることはできなかった。
 
 それで図書館にいったら、上掲書と出会う時機があった。
他に、ボルツ「世界コミュニケーション」、ジャン・コーヌ「コミュニケーションの美学」、「サイードと歴史の記述」、小谷野敦「聖母のいない国」などを借り、ぱらぱらと読む。
 今日からはピーター・ゲイの「フロイト」。