ポピュリズム

都知事選の結果について云々したいが、メモ的に。

ポピュリズムに対抗するには、ポピュリズムでしかないのか。
・「第二政党」であるというポジショニングからは、「第一政党」へどれだけ批判しても、その従属的関係は変わらない。
・いまさらだったが、柄谷行人なり浅田彰なりが都知事選に立候補したら、あるいは菅直人とか筑紫哲也とかが立候補すればなんとかなりはしないとしても、善戦できたのではないか。(対抗ポピュリズムの観点から)
石原慎太郎決断主義をいくら批判しても、それを上回る決断(があるとして)をもって抵抗・対抗しないことには、それは「少数派」という構造的布置関係における自身の帰属先を確認するだけに終始する。
・これは日本社会の政治領域において重要な点であると思われるが、実質的なリアルポリティクスにおいて、政教分離がなされていないこと。
・それゆえ、争点は、政策論争にも、イデオロギー論争にもならない。
・それゆえ、「議論したところで、数には負ける」という「あらかじめ了解していること」が再現されるだけである。
法華経の研究
石原都知事の「身振り=パフォーマンス」をいくら「幼稚」だとか、石原都知事を支持する者に対して、「もう知らない」といった諦めのような、弱い罵倒をいくらやったところで、なぜ支持されるのか、その本当の利害はなにかも分かりえないし、それがどれだけ幻想だとしても(たとえば戦争の対象として)ひとは幻想に生きるし、生きざるを得ない、という次元まで踏み込まない限り、批判にすらならない。
 であるとすれば、ある幻想を、別の幻想に置き換えるか何なりしない限り、動かすことができない。
・「ずらし」の戦略は、フランスの大哲学者デリダの「脱構築」の戦略にも通ずる、というより、「脱構築」とは、「ずらし」のこと、ちなみにまた「遅延」とは「ゆっくり・じっくり考えること」を意味すると考えていい。(デリダとルディネスコの対談より)
・ある言説なり幻想なり美学なりが多数派に支持されるという事態において、その発生の構造にまで踏み込み、別の論理の道筋にずらすことが必要である。
・ある言説なり幻想なり美学なりが支持されないという事態において、なぜその言説なり論理なりが支持されず、「説得力」を持たないのかを反省的に分析する時、状況的・構造的・関係的視座を見失わないこと。
 そうしないと、自家中毒を起こすことがある。
・「あからさまな官僚」すなわち「官僚」というイメージを再編成しないまま、すなわちこれだけ不祥事を続けてきた「官僚」イメージを引きずったまま出馬するということは、素朴にすぎた。[対抗ポピュリズムの観点がない]
ポピュリズムの対象(ここでは石原都知事)に対してどれだけ攻撃を加えたところで、「わら人形論法」にすぎないとしか見なされない。
・個別の政策案に対抗するには、それを上回る魅力ある政策を提示しないといけない。
・より一般的な次元の問題 →特殊と普遍。一国主義と普遍主義。
・より一般的な次元の問題として、こうした政治的な領域でのポピュリズムと、文化領域におけるポップ美学とは、関連しているのかどうかを見定めること。
 私はおそらく、両者は同系・同型であると思う。
 論理の根っこにおいて、「より多数派に歩調をあわせる」という傾向が、「ポップ」あるいは「ポッピズム」にある限り、これは意図せざる結果を引き起こすことを、事前に内包している。
 かといって、反ポップというスタンスは、マイノリティ・ナルシシズムに陥ることがあるし、あるいはまた原理主義を導いてしまう。