鈴木則文と「世界」

少し前から渋谷のシネマヴェーラで、鈴木則文監督の特集上映が行われている。
最近、DVDやビデオをレンタルで借りてみているが、加藤泰の「男の顔は履歴書」を見て、これまたいいものをみたと思っていたのだが(この映画の内容については現在非常に政治的な意味を持つものなので、いずれまた記事にするつもり)、鈴木則文は、この加藤泰の助監督を務めていたというので、観にいった。
 というか、見てきた弟から薦められたというのが一番の理由である。
「徳川セックス禁止令 色情大名」(1972)。
すでに話しは聞いていたのだが、これはたまりませんでした。
内容や評判については方方のブログでも大いに語られているので、省略(深く長くなりそうなので。気が向いたらまた書くかもしれない)。
 題名だけでグッとくるひとは、必ず観た方がいい。
よくぞこんなすばらしい内容の映画が、当時検閲されたのかどうか分からないが、一般公開されたものだ。

 最後の巻末句「生命の根源である性の営みを管理したり検閲したりすることは絶対にあってはならないーたとえ神の名においても」(うろ覚え)には、泣きたくなるほどの痛快さを感じた。
 
 
ビデオでも、「伊賀野カバ丸」(1983)と「パンツの穴」(1984)を借りた。これらは私らにとっては、少年期の真実を伝えるものであり、そのあまりのあんまりな真実の露呈に、ここ一週間、ショックから立ち直れないでいた。
 私の、というより、私たちの世代、あるいは80年代という時代の本質を、そしてまた少年であったがゆえに刻み込まれてしまった呪いのような人生の秘密を、まざまざと見せ付けてくれるものであった。

 とくに「パンツの穴」は、青春喜劇映画としては、かなりの傑作であると思う。
武田鉄也の円盤はなんだったのか。
ネタバレしている記事を先に読んでいたので、心の準備はあったのだが、私は抑えきれず、静かに笑い泣きしてしまった。
 この笑い泣き、つまあまりのおかしさになぜか涙が出るという体験自体も、久しいものだった。

絓秀美「1968年」ちくま新書を読んでいたら、新左翼の流れを汲む1970年代の偽史運動のなかでも、「日本における円盤運動」などが書かれたりもしているようだ。

たしかに少年期を思い起こせば、いろいろなところで宇宙円盤の話しを聞いたり見たりしたものだった。

 1980年代については、映画や本でも現在レトロスペクティヴが行われているが、「パンツの穴」については聞いたことがなかった。

 その宇宙的なダサさ。この「ダサさ」、なんなのか。それでいて、かっこよくもある。
もっとも、このカッコよさとは、鈴木則文の精神にあるのだろう。

須永朝彦の「世界ー予め設定される時間と人物」では、文楽や歌舞伎の作劇形式における「世界」という形式について論じてある。

…その草創期、脚本を書くに際して、作者たちは、徳川政権に関わる事件や人物の劇化は幕府の抑圧が厳しくてまず不可能であったから、一般の人々がよく知っていて然も興味を持ち得るような名高い伝説・物語・歴史上の事件などを題材として選ぶ必要があった。具体的には、庶民が好んだ先行芸能である能狂言幸若舞・説教節などが扱った題材とほぼ同じようなもの――たとえば源頼光と四天王の酒呑童子退治、曽我兄弟の仇討、源義経に関する様々の伝説などが選ばれている。 同じ演目の繰り返しでは飽きられるので、後日譚にするとか、当世風の人物や風俗を織り込むなどの工夫が加えられ、これが作劇法として定着、脚本の枠組となったのが<世界>である…
http://www.furugosho.com/profile/sekai.htmより。

 また、

<世界>の機能ないし有効性は何かといえば、一つは過去の時代を借りて現代の風俗を描き得ること、一つは現代の事件を過去の時代に当て嵌めて描くことによって現代の政道や世相を批判諷刺できること、一つは<世界>に則って大胆斬新な<趣向>を盛り込み複雑な筋を持つ新作(書替狂言)を出し得ること等である。

とも。

 「世界」という語についてこの文が指摘することは、まったく知らなかったので、非常に新鮮である。
 
 鈴木則文の事例は、この「世界」という形式の事例であるとは正確にはいえないかもしれないが、それでもやはり「徳川セックス禁止令 色情大名」には、江戸期の検閲と戦い、抵抗した「傾き」精神が、戯作の精神などともともに、脈々と流れていることを感じた。

 ウィキペディアで「歌舞伎」の項目を読んでいたら、関連項目に「デコトラ」があって、見たら、なるほど全く関知しなかった事柄が書かれていた。
 
 まだ未見だが「トラック野郎」もまた鈴木則文監督である。