近代の超克と九州的プロブレマティック

 小林敏明「廣松渉ー近代の超克」を読む。

廣松渉-近代の超克 (再発見 日本の哲学)

廣松渉-近代の超克 (再発見 日本の哲学)

この本を読んで再認されたことは、学生の頃、廣松渉については意外と読んでいた、あるいは廣松のプロブレマテイィックについては、案外頭に入っていたことだった。廣松が書いた一般向けの本は読んでいた。そのことを忘れていた。あの文体が魅力がありながらも、結局、その後、はまれなかったのだが、そしていまでもあまり読もう(読める)とは思えないのだが、ちょうど最近、廣松渉の「近代の超克」を再読していたので、興味強く、この廣松入門書を読んだ。
 著者の視点も、隔靴掻痒の逆、つまり痒いところに手が届くものだ(追記:日本語=漢語を間違えて、痒いところに手が届く、という意味で隔靴掻痒といってしまってたので、訂正しました。むかしは国語、得意だったのに、大分、惚けが…。恥ずかしい。でもまー恥晒しだー。)。九州的なプロブレマティックについては、同じ九州人として、ぐっとくる。
これについて書き出すとまた切りないので、中断。
 
 この講談社によるシリーズでは、大森荘蔵も準備されている。なんか、時代というか、歴史化、を感じる。

 ハリー・ハルトゥーニアンの「近代による超克」の翻訳が出てた。本屋で見たとき、くらっときた。それにしても、「研究」って、やっぱり切りないな。まあ、面白いし、この辺は、一生かけて追っていく問題だから、別にいいか。
 

近代による超克〈上〉―戦間期日本の歴史・文化・共同体

近代による超克〈上〉―戦間期日本の歴史・文化・共同体

近代による超克〈下〉―戦間期日本の歴史・文化・共同体

近代による超克〈下〉―戦間期日本の歴史・文化・共同体